川原町かいわい歩き・・・災害対策きちんとした江戸時代の建物みて考える

新婦人しそのみ班の鉈屋町界隈めぐりの案内役を引き受けた。

下町資料館 南部藩の米蔵
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明治橋際にある南部藩の江戸時代の米蔵へ・・・
下町資料館として毎月第1から第3までの土日が開館日となっているが事前申込して開けていただいた。管理委員会会長の千葉さんが説明してくださったが、南大通3丁目の町内会長も務める女性会長の先輩だ。
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米蔵は土台を高く、天井は二重構造にし湿気対策が施され常に15から20度に保たれており、漆喰壁は防火対策と同時に、北上川の洪水時にも半分くらい水をかぶっても中には一滴も入らなかったという防水対策にもなり、すぐれた建築だ。

「大地震でどうだったのですか?」と聞くと「壁にちょっと亀裂が入ったが、中の展示品は紙人形がドミノみたいに倒れていただけで大丈夫だった。当日旧暦の雛祭りの準備でお雛様を飾り、帰ろうと外に出たときに地震だったが蔵はゆらゆらと舟が揺れてるようだった」

新山河岸 
この周辺は新山川岸として、ここから石巻までの200キロの南部藩の船着場で、番所、舟宿、蔵が建ち並んでいた。帆掛け舟で黒沢尻で大きな舟に積み替えて石巻まで荷物を運び、石巻までは3日半だが、石巻からは14日かかったという。明治23年鉄道が開通するまで活気あふれる河岸だったらしい。

新山舟橋
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新山舟橋の絵図のコピーが展示されていた。奥州街道の出入り口として栄えた地域で、北上川の中洲に中島を築き柱を建て、そこに鎖で川原町に12隻、仙北町に12隻つなぎ板を渡して橋を作っての行き来だった。
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当時の舟柱が展示してあった。
昔使っていた生活用品が展示されており、丁寧に見れば1日いても飽きないほどだが先があるので失礼していた。

円光寺
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円光寺による。本堂が市保存建造物となっており、山門は左甚五郎の作だと伝えられている。ここの見ものは本堂の前にある夫婦かつらの木、左が男株、右が女株で市天然記念物となっている。女株には桜の木が住み着き花を咲かせてくれる。
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もう一つが首塚がたっているが、1675年南部藩の奥女中が、切支丹で首を切られた父親の首をもって円光寺に駆け込みお願いし供養をしてもらった。自首したが、30代の行信公が親孝行を愛でて側室にしたといういわれが伝わっている。

明治の町家川村家
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川原町は奥州街道の玄関口として栄え問屋、旅籠などが並んでいたようだ。いまだに立派な町家が多く残っている。乾物の問屋だったという明治の町家川村家を見せていただいた。
外側は現代の建物だが中に入ると立派な常居がそのまま・・座敷があり坪庭が残る。その奥には蔵があったという。「神棚は商売によって異なっており、家の神棚は乾物屋のもの」と川村さんが話してくれた。

木津屋本店
県指定文化財で、1834年築。京都の武士だった初代は「国書改ざん事件」で幕府に追われ南部藩に預けられた江戸の和尚「方長老」さんをしたい盛岡に来て、商人となった。大火から守るため土蔵造り、うだつをつくり、火事になったときは、商品を全部地下に入れ戸を閉めると自動的に戸の上に防火砂が覆うという建物を作った。防火用具もそろえ、昆布むしろ、大ウチワ、手動ポンプ、水掛柄杓など備えており、これで明治17年の盛岡大火を免れたという。その上もし焼失した時のために今の神子田にすぐ建てられる木材を準備していたという防火対策がなされていることで有名だ。

お蔵にしろ木津屋さんにしろ、その時代あらゆる災害を考えて建てられていることに驚いてしまう。大災害の見まわれた後だけに考えさせられた。もちろんお金の問題もあるが・・・災害に強い建物、町づくりを知恵をしぼってしっかり考えなければならないのでは無いのかな。
by yoko1939 | 2011-05-19 21:22 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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