反戦川柳作家の鶴彬墓前祭

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鶴彬を語る盛岡の会主催で反戦川柳家鶴彬が眠る盛岡市本町の光照寺で、墓前祭が行われ、約30人が鶴彬の業績を偲んで墓前に手を合わせた。小学生に鶴彬のことを語り、川柳を教えている宇部功さん、鶴彬の遺族の喜多さんがそれぞれ鶴彬を語った。
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石川県に在住の鶴彬の姪のかたがテッシュカバーを送ってきたといただいた。鶴彬の川柳が印刷してあった。
 「この大地 この人の群 この太陽」なんとこんなおしゃれな川柳も作っていたんだ。なんかうれしくなった。

 鶴彬は1909年(明治42年)石川県生でまれ、16歳で川柳をはじめ、プロレタリア川柳を主唱し、21歳で金沢歩兵7連隊に入営し、そこで反戦活動したため、治安維持法違反で懲役2年の刑を受けます。その後も反戦川柳を作り続け、1937年再び治安維持法違反で検挙され、翌年赤痢にかかり29歳で獄中病死した。

 盛岡で染物屋を営んでいたお兄さんが遺骨をひきとり、特高警察の監視するなか埋葬したという。

 鶴彬の墓を知った県の川柳会で1982年松園寺の境内に代表作
「手と足を もいだ丸太に してかえし」
の句碑を建てている。
 この日、牛山靖夫会長が鶴彬の新しい情報として「この句碑を光照寺のご厚意で光照寺へ移築することになった。多くの人が鶴彬を訪ねてほしい」と報告した。

 鶴彬を語る盛岡の会は2006年9月14日、鶴彬の命日に結成され命日と、治安維持法による大弾圧があった3・15事件の日の3月15日に鶴彬の墓前祭を行っている。

 「川柳は必死な生き方の一つの方法であり、その生き方をさへぎる敵を刺す一つの武器でなければならない」と主張し、命がけで短い生涯を戦争反対を貫いた鶴彬に深い敬愛を抱いた日となった。

 1937年「川柳人」に発表された最後の作品の一部だが、命をかけて反戦を貫いた姿が見えてくる。
「屍のゐないニュース映画で勇ましい」
「万歳とあげて行った手を大陸において来た」
「胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき」

Commented by いちじん at 2013-02-08 22:03 x
最近、鶴彬を知りました。
鶴彬と盛岡の関係を調べていましたら
貴ブログに辿り着きました。
お兄さんが鶴彬の遺骨を光照寺に葬られたことを
知りました。
3男が岩大に在学中なので盛岡に
行った際には墓参したいと思います。
Commented by yoko1939 at 2013-02-10 22:08
コメントありがとうございました。
兄孝雄さんは盛岡で染物屋さんをやり、次男が跡を継でましたが、お2人とも亡くなられお墓を守っているのは次男の夫人です。本名は喜多一二でお墓に刻まれています。私は「鶴彬を語る盛岡の会」の事務局長をしていますが、会長の牛山靖夫さんが遺族の方々とのお付き合いも長く詳しい方です。
「手と足をもいだ丸太にしてかへし」の碑が光照寺境内に昨年移されました。
盛岡においでの際はお立ち寄りください。時間が取れたらご案内します。
by yoko1939 | 2012-03-15 21:38 | 木木レポート | Comments(2)