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盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


by yoko1939
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駒形神社お祭り


駒形自治会と青物町内会が協賛会を作って実施している駒形神社祭典は8日大宮神社から神主さんがいらして例大祭を行い、
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夜は両町内の役員が作った舞台で子ども演芸大会や
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踊りや歌手による歌が披露された。
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舞台が始まる前、こども神輿が両町内を練り歩く。最初は「わっしょい ワッショイ」も小さな声だが、帰ってくるころには大きな声になっている。
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出店も両町内の手作り、焼きそばは町内の女性役員、やたこ焼きは老人クラブがそれぞれ腕を振るい、子どもたちに人気の綿あめは男性役員が腕を振るう。売り方になった役員と子ども演芸大会に出演した子どもが「お前うまがったぞー」と会話。屋台は子どもたちとの交流になっている。

今年特筆すべきは、神主さんが駒形神社の由来を書いたものを持ってきてくれた。おじいさんにあたる先先代の神主さんが書き留めていたものだという。

村社駒形神社由緒
 岩手県盛岡市仙北町西浦地鎮座
 村社駒形神社

祭神  保食神

  贈従三位 南部光行(県社桜山神社主祭神)源頼朝の軍に属し、藤原泰衡征伐の功に依り、陸奥国糠部の地を与えられ、建久二年其の封土に赴くや、專ら産馬事業に着目奨励し、依って其の祖神たる保食神を祀りて、蒼前駒形明神と称え、旧領地甲斐国より従え来りし加藤京吉なる者を御駒太夫として奉仕せしめ、領内諸民にも広く崇敬為さしめたりしを、廿七代の後裔南部利直盛岡城を築き、慶長四年三月、居を転ずに際し、駒形の神霊をも奉移し、現鎮座地仙北町西浦地に荘厳の社殿を建設し、同じく加藤京吉の子孫をして奉仕せしめたり、而て御駒太夫には、盛岡藩領内に於ける小芝居以下諸種興行物等の支配権を与うるの外駒形祭神の守札其の他各種諸神の絵像を藩内広く頒布するの権を特許せり。

 慶長四年駒形神社落成するや、乗馬の真影を模造せる木馬を利直寄進し、其の以降吉例として毎年正月三日盛岡城内に於いて、御駒太夫自ら諷謡其の木馬を扱い、飛馬(とび馬)と称する巧妙の舞伎を演じ次ひて太神楽の曲を畢へ、其れより連枝族諸家並各称する巧妙の舞伎を演じ次ひて太神楽の曲を畢へ、其れより連枝族諸家並各重臣外市の内外を回り、太神楽を演じたるものなりしと。
 三十三世南部利視、延享五年正月、岩手郡向中野鷹野場へ赴く途次駒形社へ参詣し否や大鳥居を献納せるなど崇敬最も篤かりしと。
 四十世南部利綱の時代即ち嘉永三年十月九日、土御門殿より陰陽道免許状並びに吉田殿より蒼前駒形明神御神位拝受として、御駒太夫加藤源次郎上京の件許可せらる。
又農民家に於いて厩舎新築せば、必ず御駒太夫を招請して馬匹安全繁殖の祈祷を為さしめ、且つ毎年農村各戸に絵馬を頒布し、厩舎出入口に必ず是を掲揚せしめたりと。
 御駒太夫に髄属し太神楽等を奏する股肱部下の戸数七軒ありて往古は該社殿に隣接住居せしめたるよりして俗に彼らを呼びて7軒丁と詳伝するにいたれりと。
 藩政時代の社殿を現存せざるのみならず境内社地四分の一に減少せりと。
 明治維新に際し、村社に列し駒形神社と称す。

右由緒は、南部伯爵家所蔵の旧記並口碑の所伝に基づくものとす。
                                                
                             
by yoko1939 | 2012-09-08 14:23 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)