日曜日とあって多くの人たちが足を運びボランティアの説明を聞いていた。
盛岡の豪商「糸冶」さんの雛人形が飾られていた。説明が丁寧でわかりやすい。上段向かって右から白内裏、白后、黒内裏、黒后、青内裏、青后。
二段目が平安時代の歌人で、玉津嶋明神、文屋康秀、僧正遍照、大友黒主、喜撰法師、在原業平、小野小町。
3段目が両端が歌人の右が山部赤人、左が柿本人麻呂(写真は切れてしまった)。その隣にそれぞれ左大臣、右大臣。この4人に囲まれて五楽人が右から鞨鼓、笙、火焔太鼓、篳篥、横笛だそうだ。
内裏雛の並べ方は、古来より左が(向かって右)が上位とされており、男雛も左だったが、明治時代になり西洋文化の影響で大正天皇が即位の礼のとき西洋式で、天皇が右(向かって左)皇后が左(向かって右)にならい雛業界が変えてしまった。京都など関西では伝統を重んじ古式のままの飾り方をしているといいます。
新穀町にあった糸冶
糸冶は天明2年(1782)盛岡に創業。呉服屋古着を中心に扱った呉服商として城下で屈指の豪商だった。新穀町から中央公民館敷地に移築され、国指定の重要文化財となっている。
新穀町で生まれ育った者から言わせていただけば、今も現存する県文化財指定の木津屋さんの向かいにあった糸冶さんがそのままあの場所にあったらよかったのに・・・と残念でしょうがない。
裏紋は蔦・・・商売繁盛、子孫繁栄の願い
説明ボランティアの方が熱心にいろんなことを教えていただいた。これが糸冶さんの家紋で。裏家紋が蔦なそうだ商売繁盛を願ってのこと。徳川家の裏紋も蔦で子孫繁栄を願ってのことだという。
もう一つ糸冶さんの話で興味深かったのは、火災で焼けた後の再建した建物の店先に、焼け焦げた柱を使っているという。火の用心の意味が込められているという。建物は見たことがあるがそこまで見なかった・・・
幕府が享保雛人形の高級化をいさめる方針を示す
享保雛は50センチ近くもある大きなものだ。享保(1716~1736)の時代に「享保雛」が流行し、どんどん大型になり幕府は享保6年に(1721)に「8寸(約24センチ)以上のものの製作を禁ずる」と取締令を発したという。
雛屏風は「農耕図」
雛屏風は花とか松に鶴などの屏風が多いように思っていたが、田植えと刈り入れの屏風にひきつけられた。絵師は海野楳岳とあった。どんな背景があるのかナー
もう一つ興味を注がれたのは、「十軒店の雛市」(天保年間に発行された雑誌の挿絵)
と明治中期に発行された「雛拝見」(千代田の大奥より)の錦絵。
どちらも当時の生活様式がわかる面白いものだった。
今回の人形展は説明文とボランティアさんの丁寧な説明でとても勉強になった楽しい時間だった。