吉田松陰が盛岡に来た・・・勉強になった!

2月10日(日)盛岡劇場で開かれた「盛岡に足跡を残した著名人」と題する、聞き語り もりおか歴史散歩に行った。

「吉田松陰が盛岡に来て穀町の宿屋に泊った」という話を聞き、どうして盛岡に来たのだろう?と何十年も疑問を抱いたままだった。

その疑問が解けるという期待を持って参加してみたら、なんと江戸時代栗山大膳、菅江真澄から昭和初期の芥川龍之介、ヘレンケラーまで20人を超える人の盛岡におけるエピソードが話された。

興味を持っていた吉田松陰は熱心に聞いてきた。

江戸の塾で一緒だった那珂梧楼が投獄死したが兄江幡春庵の仇を打つというので、吉田松陰は友人の肥後熊本の宮部鼎蔵とともに仇討の手伝いをすると来たが、仇討の相手は亡くなっていたため仇討にはならなかったが、盛岡には嘉永5年(1852年)3月11~12日滞在したという。

東北を旅した日記を「東北遊日記」を書いており、盛岡では、長田町のお寺の塀に漢詩をを書いたり、津志田の遊郭を見て「南部藩はこれで良いのか」と嘆いたりした。というー。

さてー那珂梧楼?宮部鼎蔵?知らない!
どうやら旅日記が残されているようだ。

ネットで探ってみたらあった!あった!!

 「東北遊日記」には「十一日 晴。未後雨あり。村を發す。渋民を經て盛岡に至り、中津川の橋を渡りて、村井京助を訪ふ。石町に至りて宿す。行程三里。是れ南部美濃守二十萬石の都なり」と書いてあるらしい。
やっぱり穀町に泊ったんだ・・・村井京助?と調べたら呉服商「鍵屋」という豪商だった。尊王の志が篤く,江幡春庵,目時隆之進,吉田松陰らと交友しており、後に4代目村井茂兵衛となった。

那珂梧楼は、
漢学者。18歳の時,藩主利済(としただ)の近習に挙げられるが,脱藩し、江戸,京都,安芸などを遊学,多くの士と交友を結び、その中に吉田松陰がいた。
1849年(嘉永2年),梧楼の兄春庵(しゅんあん)が利済(としただ)の側近田鎖左膳に捉えられ獄死する。これを聞いた梧楼は仇討を画策,吉田松陰,宮部鼎蔵(ていぞう)とともに奥州に下るが先に利済(としただ)派が失脚,ついに本懐を遂げることができなかった。
後日、盛岡藩が藩校明義堂教授として迎えた。1865年(慶応元年)には藩校の名称を作人館と改めるとともに,梧楼の唱える「和漢一致」が学風として取られ,名実ともに盛岡藩校の中心となった。
盛岡の先人として先人記念館に顕彰されているという。知らなかった・・・

宮部鼎蔵
吉尊皇攘夷派の活動家である。吉田松陰が20歳の時、九州遊学中に10歳年上の宮部鼎蔵と会い盟友となり、東北遊学を共にする。
元治元年(1864年)6月5日 池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。享年45。明治24年(1891年)に従四位を贈られている

吉田松陰は萩市と世田谷に松陰神社がありすごい人だとは思っていたが・・・29歳で処刑されている。時代を切り開いた一人であることは間違いない。

インターネットはお利口さん!とにかく勉強になった。
by yoko1939 | 2013-02-18 17:27 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)