反戦川柳家「鶴彬」春の墓前祭・・・治安維持法大弾圧から85年

治安維持法による大弾圧ががはじまった1928年3月15日から85年となる今日、盛岡市の光照寺墓地にある鶴彬の墓前で春のつどいが行われた。
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鶴彬を語る盛岡の会会長の牛山靖夫さんが「治安維持法の犠牲者である鶴彬の墓前での春のつどいは鶴彬を偲ぶとともに治安維持法の犠牲者を偲び、二度と暗黒の時代を繰り返してはならないという決意を固めあう日として8年目を迎えた。昨年句碑が光照寺境内に移設され県内外からの訪問者も増えている」と挨拶。

小林多喜二は「三月十五日をわすれるな」と呼びかけており、鶴彬も川柳で「三・一五のうらみに涸れた乳をのみ」の句を詠んでいるいるという。

長年小学生に授業で鶴彬のことを語り川柳を教えている宇部功さんは、小学生の感動的な感想文を紹介。秋田から駆け付けた茶谷十六さんは、「小林多喜二の全集が韓国で翻訳されているが鶴彬の川柳も働きかけたい」と話した。
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わらび座の茶谷さんはご夫婦で参加してくれた。光照寺境内句碑の前で・・・・

安倍内閣発足以来、憲法改悪にむけ次々ときな臭い匂いが強くなっている。多くの人たちと力を合わせてストップをかけなければ・・・・との思いを強くしたつどいとなった。

石川啄木を兄のように慕った鶴彬

 今年は石川啄木没後100年。その啄木を鶴彬は兄のように慕っていたという。
 鶴彬は18歳の時、東京にでたものの職探しには苦労し、川柳仲間の友人に「失職すると啄木が兄のように思われます」と啄木の短歌を引き「高きより飛び降りるや、心よく我にの句、わが抱くの思想のみんな金なき因せる如し秋風ぞ吹く、の心境をひしひしと感じます」と手紙を送っているという。
 鶴彬は啄木の「歌集」「評論」「日記」「書簡集」も実によく読み、評論「井上剣花坊と石川啄木」を書いている。(治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟岩手県本部機関紙「不屈」230号より)

 鶴彬と石川啄木がつながった・・・・ますます鶴彬が身近に感じ愛おしくなった。

 鶴彬(本名喜多一二)は石川県高松町で生まれ、上京し19歳で反戦運動に加わり、「手と足を もいだ丸太に してかへし」「胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき 」など数々の反戦川柳を発表し続けた。治安維持法のもとで検挙されたが意志を貫き、2度目の検挙で獄中で赤痢にかかり病死した。29歳だった。

盛岡で染物屋を営んでいた兄が遺骨を引き取り光照寺の喜多家の墓に埋葬した。埋葬するときには特高警察が見張っていたという。

「戦争反対」というだけで捕えられ拷問を受け、殺された時代に、信念を貫き生き抜き、盛岡に眠る鶴彬からパワーをもらった。
by yoko1939 | 2013-03-15 18:01 | 木木レポート | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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