歴史てくてく⑱吉田松陰が盛岡に来たのはなぜ?

大河ドラマ吉田松陰の妹が主人公の「花燃ゆ」は視聴率が悪いようだが、「吉田松陰が盛岡に来た?」事に興味をもち数年前から追っかけをやっている。
 
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盛岡には嘉永5年(1852年)3月11,12日に滞在した。
 江戸の塾でともに学んだ南部藩の江端梧楼が兄の仇討をするという事に共感し、友人の肥後熊本の宮部鼎蔵とともに出発を赤穂四十七士討ち入りの12月15日と決めたが、藩からの手形が届かず、友人の約束を守り脱藩し出かけた。

 水戸に寄り、江端とは白河で別れ、松陰と宮部は会津に向かい、さらに日本海沿いを北上し、青森から南部に入り渋民を通って嘉永5年3月11日盛岡に入った。
上の橋を渡り紺屋町の村井茂兵衛に会い、夜を徹して国事を語り合い、経済的援助を受けたという。この日は石丁に泊ったと、松陰の旅日記には記されている。

 翌十二日山影村に息をひそめて暮らす江端梧楼の兄江端春庵の遺族を訪ね、梧楼の手紙を渡している。その足で春庵の墓参りしようと香殿寺(『内史略』には天福院とあるという)へ行ったが、春庵の仮葬所は処刑人の咎によって板塀で囲われていた。憤慨した2人は板塀に筆を走らせた。
 そんな気持ちを抑えきれずに北上川の舟橋を渡り奥州街道を南へ・・・津志田で妓楼が立ち並んでいるのを見た松陰は、木を倒し、良田をつぶして妓楼を建てている「南部の国事、実に悼むべきかな」と日記に記しいる。
 松陰21歳の旅は、外国船の侵入に立ち向かえる国になっているかを確かめる東北遊学だったが、盛岡ではもう一つの目的を果たした?と思う。  

 翌年南部百姓一揆最大の三閉伊一揆がおきたが、この事態を知った松陰は「そもそも民衆が困窮しているからこのようなことが起こるのだ」と兄に手紙を出している。 (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-11-10 23:03 | 歴史てくてく | Comments(0)


盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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