歴史てくてく㉕宮古街道の道標は歴史を物語る

「宮古街道を探る」催しに参加し、宮古街道のほんの一部、旧宇津野発電所から東山二丁目の「砂留の道標」まで歩いた。車で走っているとまったく気が付かないが、いたるところに街道らしき道が残っていることに驚いた。

 宮古街道は盛岡城下から宮古に達する街道で北上高地の区界峠や山中を越える難所が多い街道だった。沿岸から海産物を内陸に運び帰りは米雑穀を運び人々の暮らしを守る重要な役割を果たしていたため幾度となく筋の変更、改修を繰り返した。次第に閉伊川川沿いのルートとなっていった。
 
  宝暦5年(1755)頃から牧庵鞭牛和尚によって、平津戸~蟇目間が改修整備され、文政6年(1823年)には五戸の豪商藤田武兵衛によって新道が開削改修した。 文化年間(1804-1817)以降は異国船への海岸防備のため改修工事が行われている
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 今回訪れた砂留の道標は、寛延4年(1751)3月7日建立の庚申供養塔と寛政12年(1800)6月9日建立の「庚申供養塔」は「右宮古道、左山道」とある。文化年間(1807年)正月吉日建立の庚申塔に「右はかはめ(川目)みち「左はみやこみち」とある。かわめみちは、川目部落までの小道でその奥は開発不能と言われていた。そのルートを藤田武兵衛が新宮古道として切り開いた。
そのことを示すのが弘化二乙巳年(1845)2月16日の南無阿弥陀佛碑に「右はみやこしんみち」「左はみやこみち」とある。この新宮古街道が本道として活用された。

道標は歴史を物語る重要なものだった。気にもかけてなかった道標がとても愛おしく感じられた。
(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-11-01 19:40 | 歴史てくてく | Comments(0)