㉗盛岡城下の時鍾は2つだった

盛岡市先人記念館が毎年開催し11回目を数えた企画展「盛岡の古町名展」は今年「内丸かいわい」だった。
内丸地区は、藩政時代盛岡藩の政治の中心地で武家屋敷が並ぶ一帯だったが、現在ほとんど面影が亡くなってしまっている。展示の中で目に留まったのが「鶴が池」の側にある「時鍾」だった。
四代藩主南部重信公の子行信の提案で、盛岡城下に時を知らせるために2つ時鐘をつくり、1つは,城下外郭南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近),もう1つは,北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)に鍾撞堂を1679年(延宝7年)11月に設置した。
鐘銘は,聖寿禅寺大道和尚の作で,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられている。鐘の大きさは,竜頭まで2.03メートル(6尺7寸),惣廻り3.79メートル(1丈2尺5寸),指し渡し1.21メートル(4尺),輪口の厚さ0.15メートル(5寸),重重3.597キログラム(959貫100匁)あります。
三戸町にあった時鍾は、明治維新後に,盛岡城跡の内堀,鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転された。その後,1955年(昭和30年)頃まで鐘楼守がいて毎日盛岡の人々に時刻を知らせ,親しまれてきた。
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1967年盛岡市指定有形文化財に、2015年には県指定有形文化財となった。
現在は,6月10日の「時の記念日」と,元旦の除夜の鐘として年2回,鐘の音が復活している。時鍾の近所の方が「除夜の鐘を突きたいと思って並んだが、前の前の人が108人目でそれ以上は打たせてくれないんだよ!」と怒ってた。
最も注目したのは、もう一つの時鍾は東京都台東区谷中の全生庵にあるという。臨済宗国泰寺派寺院で山岡鉄舟が明治16年に建立したお寺だという。無事でよかった!でもどうして東京に行っちゃったのかなー?。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-01-30 17:59 | 歴史てくてく | Comments(0)