カテゴリ:歴史てくてく( 28 )

歴史てくてく㉙戦後6年間の盛岡市立不来方中学校

この春、選抜高校野球大会に21世紀枠で出場果たした選手10人の不来方高校野球部が全国から注目を浴びた。「こずかた」と読み方を知ったとの声も多くうれしかった。65年前、大慈寺小学校を卒業し入学したのが不来方中学校だった。岩手公園南側の現在彦御蔵の所に校舎が建っていた。古い校舎の2階が1年生の教室で、窓は辛うじてガラス戸だったがその外側には格子がはめられていた。雨が降れば雨漏りがしてきてバケツがいくつも並んだ。なにせ柾葺きの屋根は古くなってだいぶ傷んでいた。
岩手公園の石垣はまだ整備されておらずでこぼこだった。男子はその石垣を登るのが昼休みの遊びだった。
昭和28年河南中学校が現在の茶畑に完成し、全校生徒が自分の机と椅子を持って公園下から茶畑まで行列つくって引っ越しした。
青春時代の懐かしい思い出の一コマだ。
さて?あの古いぼろ校舎の前身は何だったのか?と調べたらお宝が見つかった!2013年盛岡市立河南中学校創立60周年記念誌に詳しく掲載されていた。
 明治37年6月作人館中学部(前私立岩手医学校附属中学校普通学校)が新築開校。大正10年3月に同校廃校後、昭和15年まで岩手女子高校が使用。昭和17年から昭和22年まで盛岡市立青年学校(昭和21年に盛岡市立実業学校に校名変更)が使用、昭和22年4月に不来方中学校が開校(1年間実業学校と併設)した。
 そういえば・・・向かいにこれまたボロの岩手女子高の寄宿舎があり、使われていた。
不来方中学校は28年3月廃校まで6回生まで受け入れ、6年間で400余人が在籍した。1995年に同窓会の不来方石垣会が跡地にささやかな石碑を建てた。
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 不来方中学校の校歌の1番が「中津の流れ 清らかに 遠き郷土の 史を語る 緑の松は作人の 教え伝えて 窓匂う ああ由緒ある わが母校」だった。
 やっと校歌の意味が理解できた。作詞は当時国語の教師吉田慶治先生だった。あの世で「やっとわかってくれたか~」と笑っているかもしれない。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-05-24 10:55 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉘盛岡のもう一つの時鍾

盛岡城下のもう一つの時鍾は、明治18年集会所新築の資金集づくり売却されたという。それがどうして東京谷中の全生庵にたどり着いたのか?
2月に娘からプレゼントの旅を利用し全生庵へ行き時鍾に会ってきた。
全生庵は臨済宗国泰寺派。山岡鉄舟が幕末明治維新で国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立している。
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ご住職さんからお話を聞いたが「何も分からない。でも、鐘に明治に銘文を刻んでいる」というので、お許しを得て鐘楼に登って見た。目視では無理!住職さんが「銘文がありますから送ってあげます」という。
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住職さんからのメールでは、銘文には寄贈者と思われる山岡鉄舟はじめ4人の名前が刻まれ、明治23年11月5日撞初供養式が行われたことが分かった程度だった。
探し回ってやっと詳しい資料にたどり着いた!「県文化財調査報告書」によれば、南部藩の時鍾は3つあったらしい。一番古いのが花巻(1646.9)にあり、次が全生庵(1652.6)のもの、そして桜山神社の向かいにあるもの(1679.11)だという。もう一つあったのかー
全生庵の時鍾は、盛岡城のものだったが1657年に町方に下げ渡され城下斗米(とっこべ紺屋町東裏通の古称)に移設され、町方持ち(町方請負)の町鐘となった。それが、
十三日町に再移設され、明治維新まで同所で時を告げた。明治以降所有していた町会が、盛岡市民集会所杜陵館の建設資金捻出のため明治 18 年(1885)に売却したという。東京谷中全生庵の寺鐘の追銘に刻まれている4人の発願者のひとり、東京神田材木町の三崎芳之助から購入したものという。お寺に納まって本当に良かった。貴重な文化財がこれからも大事にされることだろう。 明治18年といえば前年の明治17年に河南地区一帯を焼き尽くす大火があった。被害は、家屋1432、土蔵46、神社6、寺院10、学校3、その他300余と焼野原となった。
当然十三日町の鐘楼も焼けていただろうし、早く集会所が必要だったことも、時鍾を売らなければならなかった事情も想像できるナー。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-03-22 23:01 | 歴史てくてく | Comments(0)

㉗盛岡城下の時鍾は2つだった

盛岡市先人記念館が毎年開催し11回目を数えた企画展「盛岡の古町名展」は今年「内丸かいわい」だった。
内丸地区は、藩政時代盛岡藩の政治の中心地で武家屋敷が並ぶ一帯だったが、現在ほとんど面影が亡くなってしまっている。展示の中で目に留まったのが「鶴が池」の側にある「時鍾」だった。
四代藩主南部重信公の子行信の提案で、盛岡城下に時を知らせるために2つ時鐘をつくり、1つは,城下外郭南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近),もう1つは,北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)に鍾撞堂を1679年(延宝7年)11月に設置した。
鐘銘は,聖寿禅寺大道和尚の作で,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられている。鐘の大きさは,竜頭まで2.03メートル(6尺7寸),惣廻り3.79メートル(1丈2尺5寸),指し渡し1.21メートル(4尺),輪口の厚さ0.15メートル(5寸),重重3.597キログラム(959貫100匁)あります。
三戸町にあった時鍾は、明治維新後に,盛岡城跡の内堀,鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転された。その後,1955年(昭和30年)頃まで鐘楼守がいて毎日盛岡の人々に時刻を知らせ,親しまれてきた。
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1967年盛岡市指定有形文化財に、2015年には県指定有形文化財となった。
現在は,6月10日の「時の記念日」と,元旦の除夜の鐘として年2回,鐘の音が復活している。時鍾の近所の方が「除夜の鐘を突きたいと思って並んだが、前の前の人が108人目でそれ以上は打たせてくれないんだよ!」と怒ってた。
最も注目したのは、もう一つの時鍾は東京都台東区谷中の全生庵にあるという。臨済宗国泰寺派寺院で山岡鉄舟が明治16年に建立したお寺だという。無事でよかった!でもどうして東京に行っちゃったのかなー?。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-01-30 17:59 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉖岩洞湖底に眠るミステリー

「岩洞湖底に眠る野田街道を歩く会」にワクワクしながら参加。
 9月上旬の数日間だけ岩洞湖の水位が下がり、湖底に沈んでいた野田街道が出現するのだ。
 湖底を歩いていくとあちこち周囲と色が違う場所がある。丸いものは何と縄文時代や平安時代の竪穴住居の跡だという。
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 長方形の形がいくつも並んでいるものは、穴を掘り落とし穴を作って動物を捕らえる仕掛けだという。
 盛岡市遺跡の学び館の神原さんの話によれば、岩洞湖周辺の薮川の遺跡は⒖カ所も確認されているが、発掘調査されたのは小石川遺跡のみだという。ここで発見されている土器石器は、縄文時代早期の8500年前から晩期2300年前、弥生時代の2300年前~1800年前、平安時代1200年前のもので、13000年前の旧石器時代終末期の石器も発見されているという。
 1万年前にこんな寒いところに人が住んでいた?どこから来たのか?どんな生活してたのか?興奮した。
 野田街道に到着。湖面から山に向かってくっきりと2.5mの道が見えた。湿地だったのではないか?道の中に小枝や茅のが縛ったものが敷かれている。
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 その道のそばに江戸時代から昭和にかけて宿だったと思われる大きな家の礎石が見られ、蹄鉄やビール瓶、食器のかけらなどが散乱していた。
 南部領内で最も製塩が盛んだった野田の塩を運んでくる道として「塩の道」とも呼ばれていた。
 野田街道を歩く予定が、縄文時代、平安時代に入り込み、知らない世界をさまよった気分の一日だった。岩洞湖底に眠るミステリーだった。
    (浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-12-16 21:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉕宮古街道の道標は歴史を物語る

「宮古街道を探る」催しに参加し、宮古街道のほんの一部、旧宇津野発電所から東山二丁目の「砂留の道標」まで歩いた。車で走っているとまったく気が付かないが、いたるところに街道らしき道が残っていることに驚いた。

 宮古街道は盛岡城下から宮古に達する街道で北上高地の区界峠や山中を越える難所が多い街道だった。沿岸から海産物を内陸に運び帰りは米雑穀を運び人々の暮らしを守る重要な役割を果たしていたため幾度となく筋の変更、改修を繰り返した。次第に閉伊川川沿いのルートとなっていった。
 
  宝暦5年(1755)頃から牧庵鞭牛和尚によって、平津戸~蟇目間が改修整備され、文政6年(1823年)には五戸の豪商藤田武兵衛によって新道が開削改修した。 文化年間(1804-1817)以降は異国船への海岸防備のため改修工事が行われている
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 今回訪れた砂留の道標は、寛延4年(1751)3月7日建立の庚申供養塔と寛政12年(1800)6月9日建立の「庚申供養塔」は「右宮古道、左山道」とある。文化年間(1807年)正月吉日建立の庚申塔に「右はかはめ(川目)みち「左はみやこみち」とある。かわめみちは、川目部落までの小道でその奥は開発不能と言われていた。そのルートを藤田武兵衛が新宮古道として切り開いた。
そのことを示すのが弘化二乙巳年(1845)2月16日の南無阿弥陀佛碑に「右はみやこしんみち」「左はみやこみち」とある。この新宮古街道が本道として活用された。

道標は歴史を物語る重要なものだった。気にもかけてなかった道標がとても愛おしく感じられた。
(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-11-01 19:40 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉔オール沖縄をオール日本に

「平和憲法のある日本へ早く復帰したいというのが沖縄の人たちの願いでした。ところが復帰しても沖縄は全然変わらなかったのです。今も変わりません。今回の女性遺棄事件は沖縄の人たちは助けてあげれなかった・・・と苦しみ、そして怒りでいっぱいです」と平和ガイドの第一声だった。

 50年間沖縄の祖国復帰と基地撤去を闘う人々を撮り続けてきた写真家「嬉野京子さんと行く沖縄本島・伊江島ツアー」に参加し、米軍基地と3か所の闘うテント村を走り回った。

 東村高江では、オスプレイが着陸するヘリパッド建設計画を2カ所は作られたが4カ所はストップさせているという。この基地には柵がなく訓練中の米兵が突如民家の庭先に顔を出すこともあるという。ベトナム戦争の時、地区住民をベトナム人にみたて訓練したという。

 ⒒人の児童と一般6人死亡、220余名の重軽傷者をだした米軍のジェット機が墜落した宮森小学校の慰霊碑の前で体験者の方のお話を聞いた「50歳まで話せなかった。二度と繰り返えしてはならないと話すようになった。今回の女性遺棄事件の犯人はは米人だが、第二の犯人は日米政府だ」と強調。
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 座り込み4422日目の辺野古団結小屋では「基地計画は、軍艦を寄港できる新しい基地を作って永久に固定化することが目的で、普天間からの移転ではない。オール沖縄で新基地は絶対作らせない闘いをやっている」と説明受けた。
「沖縄ではいまだに戦争が続いている!」ことを実感。そして沖縄を戦後にするためには、オール日本を実現し政治をを変えなければ痛感してきた。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-06-01 22:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉓桜の花は癒しとパワー

「今年の桜はきれいだね~」が春の挨拶だった。 どこの桜ももりもりと咲き、遠出せずに花見を楽しみ、癒しとパワーをもらった。そして桜の花が持つ魅力を感じさせられた。

 毎年どこの桜を見に行こうか?と思ったときテレビなどで紹介される石割桜(国天然記念物)、岩手公園、高松の池、米内浄水場のヤエベニシダレヒガン群(市保存樹木)などが思い浮かぶが、目立たない貴重な桜もある。
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その一 龍谷寺のモリオカシダレ(国指定天然記念物)名須川町大正九年(1920)盛岡サクラの会の要請で来盛した国の天然記念物調査員の三好学氏(東京大学教授)が盛岡特産のシダレザクラの新種として「モリオカシダレ」と名付けて発表した。樹齢180年を超え寿命に近いがお寺の保護で毎年花を咲かせている。

その二法華寺のモリオカシダレ(市指定天然記念物)北山一丁目龍谷寺のモリオカシダレの老化を心配し後継樹として市教育委員会が昭和四七年天然記念物に指定した。樹齢は九〇年龍谷寺のものより花が大きい。枝ぶりも見事。

その三上米内のシダレザクラ(市指定天然記念物)上米内字赤坂
この付近に米内光政家の先祖の墓地があり、大正以前から「庭前の桜」として地域で有名だったという。個人所有なのでお断りして見せていただくのが礼儀かな。樹齢三五〇年近い。

このほかにも市指定天然記念物で、愛宕町の紅枝垂れ、本誓寺のホンセイジシダレ、名乗り坂のエドヒガンがある。古木が多いが頑張っている!
来年は楽しみながら、自分の一本の桜を見つけたいものだ。        (浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-05-01 19:23 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉒忘れない3・11

東日本大震災から5年。
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「津波と原発事故による避難者が10万人弱(うち県外避難4万3270人)災害関連死は2016人と、津波などによる直接死1604人を大きく超えた」という福島県のこの数字はショックだった。
 福島の人たちはこの今をどうとらえているのか?その答えが福島民報が福島テレビと共同して3月5日実施したの世論調査に寄せられている。 
 「県内の復興を実感しているかどうか」を聞いた結果、「実感できない」と回答した人は43・5%で、「実感している」と答えた人の約2倍となった。約半数が復興が進んでいないと感じている。
 「県内の現状が国民に正しく理解されていると思うかどうか」の質問には、「理解されていない」が73・2%に上り「理解されている」の6.1%を大幅に上回った。
「原発事故について、国内で風化していると感じるか」の答えは、風化を「感じる」は70%で、「感じない」の14・8%を大きく上回っている。「福島は理解されてない、原発事故が風化している」これが福島の声なのだ。
 10万人もの人が、帰りたくても帰れない、朽ち果てていく家をただ眺めていなければならない。そして自ら命を絶つ人、孤独死も増えている。5年も経っているのに・・・切なくなって盛岡を飛び出し「てくてく」と福島まで向かってしまった。
 事故原因も究明されてないのに次々原発を再稼働させている。政府も東京電力も責任を取っていない。
福島の声に、被災地の声に耳を傾け、心を寄せて「忘れないぞ3・11を!」
(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-04-01 22:06 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉑江戸時代から二百年の南部絵暦②

江戸時代から続く民俗資料「南部めくら暦」について一昨年一月にこのシリーズ⒑で取り上げたとき「続きをやってほしい」の声をいただいた。
 近年「めくら」は差別用語だと「絵暦」と名称を変えて使っているが、文盲の人たちがこの絵を読み解いて一年間生活していた歴史の証だと思う。
 今回はさっそく絵を中の段を下のほうに読んでいくことにする。
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☆塀と背に井桁で平成重箱が2個と●が8個で28年。今年の干支が猿。
☆2段目の右は木と剣、鑯(せん)が2本、百文銭が7本、●と▼が6個で紀元2,676年。
☆中が明の方(恵方)巳と午の間(南南東)の方向が大吉の年。
☆左は葉と旗の乳(ち)と馬で、はちうま(初午)で農家は豊年満作を、商家は商売繁盛をお稲荷さんに祈願する日。サイコロは月を示し12、重箱が2個で⒛、●が8個で前12月28日と重箱が二つ●が6つで2月6日。
☆3段目の右が庚申ー60日毎に廻ってくる庚申の夜庚申様を祭る行事。1年に6回前後ある。猿3匹の掛け軸で表す。サイコロの目の数が月、その下が日にちの数。☆左が甲子ー庚申の4日後に廻ってくる甲子(きのえね)の日は大黒様に作物の豊作や商売繁盛を大黒様に祈る日。大黒天を祀り祈る人で表している。
☆4段目 社日ー彼岸の中日に近い戊の日に神社にお参りし、春には五穀豊穣を、秋には収穫を感謝する。日にちは先の方法でー。
彼岸の入りー団子で表している。続きはまたの機会に。
       (浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-01-17 14:19 | 歴史てくてく | Comments(0)

⑳大島高任と日新堂

釜石市の「橋野鉄鋼山」が「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界遺産に登録され、現存する最古の洋式高炉跡とともに脚光を浴びているのが高炉を築いた大島高任だ。
 幕末の日本は外国からの海防のための大砲や軍艦を造る良質の鉄が求められていた。
 高任は、盛岡藩の侍医の長男で、江戸、長崎で蘭学、兵法、砲術、採鉱、製錬を学んだ。水戸藩主徳川斉昭にこわれ那珂湊に反射炉を築いたが鉄の強度に問題が生じた。鉄鉱石から良質な鉄を取り出せる洋式機高炉を、甲子村大橋(現釜石市)に建設し連続出銑に成功し「日本近代製鉄の父」と称されるようになった。
 大島高任の功績の場が盛岡にも残っている。高崩にあった幕末の洋学の私塾「日新堂」だ。といっても跡地は国道4号の下になってしまい、昭和六〇年(1985)に岩手県医師会が建てた記念碑が岩手自動車学校の入り口にひっそりと佇んでいるだけだ。
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日新堂は、急速に近代化する時代の流れにこたえられる人材を育てる目的の洋学を学ぶ私塾で、化学、物理学、鉱物学、植物学、医学、英語等のカリキュラムが組まれ、種痘の実施や砲術訓練まで行われた画期的な学校だった。
 その中心になったのが高任と西洋医学の先駆者八角高遠だった。 多彩な人材を輩出したが、戊辰戦争の敗北とともに明治政府に兵器製造所にみなされ、僅か五年で廃校となった。
 幕末から明治の激動の時代、洋学を学んだ若者たちのエネルギーを実感した。  (浦川陽子) 
by yoko1939 | 2016-01-05 16:58 | 歴史てくてく | Comments(0)


盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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