カテゴリ:歴史てくてく( 28 )

戦後70年の今年、平和へ前進できる年にしたいとの国民の願いを踏みにじり安倍政権は「戦争法案」を衆院で強行採決・・怒りが広がっている。強行採決の国会を取り巻いた若者たちの姿に拍手!だった。 昨年末、1949年東大協同組合出版部から刊行された「きけわだつみのこえー日本戦没学生の手記」を手に入れた。どのページも茶色になっている。
 見返しの四枚の絵にくぎ付けになった。薄くなって伝えきれないが、
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写真の右の絵は終戦一か月前まだ立っている自分の姿「もうこれ以上はやせられまい」と添え書きがある。左は餓死10日前の痩せこけて立つことができない自分の姿。
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裏表紙の見返しはいろんな食べ物がいっぱい描いている中に自分がいて「これだけあれば病気はなほる」と添え書き。もう一枚は家族の似顔絵・・・。
 昭和18年東京美術学校卒業し、同年11月入営、20年8月19日宮古島陸軍病院で餓死した関口清さんの亡くなる直前のスケッチだ。
 日記には「俺はこの戦争のそして、人類のいやすべての結末がみたい。生きねばならぬ。貴重な寶を後世に残すべく、病魔と衰弱と、うえと、酷暑と戦わねばならぬのだ」そしてやがて春が来ることを確信していると記している。
 第二次世界大戦の日本戦没者は310万人、うち軍人が230万人、その6割が餓死者だといわれている。戦争を知るための一つの貴重な資料「きけわだつみのこえ」聴こう。   (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-11-10 23:30 | 歴史てくてく | Comments(0)

大河ドラマ吉田松陰の妹が主人公の「花燃ゆ」は視聴率が悪いようだが、「吉田松陰が盛岡に来た?」事に興味をもち数年前から追っかけをやっている。
 
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盛岡には嘉永5年(1852年)3月11,12日に滞在した。
 江戸の塾でともに学んだ南部藩の江端梧楼が兄の仇討をするという事に共感し、友人の肥後熊本の宮部鼎蔵とともに出発を赤穂四十七士討ち入りの12月15日と決めたが、藩からの手形が届かず、友人の約束を守り脱藩し出かけた。

 水戸に寄り、江端とは白河で別れ、松陰と宮部は会津に向かい、さらに日本海沿いを北上し、青森から南部に入り渋民を通って嘉永5年3月11日盛岡に入った。
上の橋を渡り紺屋町の村井茂兵衛に会い、夜を徹して国事を語り合い、経済的援助を受けたという。この日は石丁に泊ったと、松陰の旅日記には記されている。

 翌十二日山影村に息をひそめて暮らす江端梧楼の兄江端春庵の遺族を訪ね、梧楼の手紙を渡している。その足で春庵の墓参りしようと香殿寺(『内史略』には天福院とあるという)へ行ったが、春庵の仮葬所は処刑人の咎によって板塀で囲われていた。憤慨した2人は板塀に筆を走らせた。
 そんな気持ちを抑えきれずに北上川の舟橋を渡り奥州街道を南へ・・・津志田で妓楼が立ち並んでいるのを見た松陰は、木を倒し、良田をつぶして妓楼を建てている「南部の国事、実に悼むべきかな」と日記に記しいる。
 松陰21歳の旅は、外国船の侵入に立ち向かえる国になっているかを確かめる東北遊学だったが、盛岡ではもう一つの目的を果たした?と思う。  

 翌年南部百姓一揆最大の三閉伊一揆がおきたが、この事態を知った松陰は「そもそも民衆が困窮しているからこのようなことが起こるのだ」と兄に手紙を出している。 (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-11-10 23:03 | 歴史てくてく | Comments(0)

紺屋町番屋の思い出
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与の字橋際に建つ紺屋町番屋は、一八九一年消防よ組番屋として建てられ一九一三年改築したものが現在の建物だ。
 当時流行した木造洋風で望楼部分は六角形になっおりなんともおしゃれな大正建築だ。
 二十年程前になるだろうか?外壁の塗装が剥げて、市は一階を残し望楼部分だけ塗り替えた。その理由は「保存建造物になっているのは望楼部分だけ、一階は消防団管理」と説明した。
 行政というのは庶民が思いつかない面白い考え方をするものだと笑ってしまった。
 ところがその考え方は延々と続いた。
 〇五年第五分団屯所が近所へ新築。紺屋町番屋は保存が決まったが「市の所有にならなければ手は出せない」と傷んだ建物が放置されてきた。
 ついに市長に「ぼろぼろの番屋に観光客がカメラを向けている。市民として恥ずかしい」と直訴した。すぐに壊れた窓ガラスは直ったがそれまでだった。
 紺屋町番屋の地権者は当初十一人だったものが代替わりで六十三人に増えていた。地元の方々が市へ寄贈、保存活用を求めて努力したが、一人の反対にあい所有権移転登記訴訟を起こし、このたび最高裁で勝訴した。  地元では八月をめどに市へ寄贈予定だという。すっかり傷んでしまっている建物を変な改築などせず市民感覚を取り入れた建物にし保存してほしいと願う。
(浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-05-18 20:29 | 歴史てくてく | Comments(0)

創立140年の川目小学校の閉校に思う

今年創立百四十周年を迎える盛岡市立川目小学校が来年三月で閉校するという新聞報道を見て焦燥感に駆られた。
十数年前に簗川ダム建設の集団移転により砂子沢小、根田茂小が閉校し、川目小に統合されたばかりではないか!  児童減少だけで判断してもよいのかー
 四十年前の百年誌を紐解くと同校は●1875年8月、私塾として創設し、民家を借り開校。88年に現在地に校舎を新築移転。
●1889年4月、簗川村・砂子沢村・川目村・根田茂村が合併して岩手郡簗川村立川目尋常小学校と改称。
 ●1892年簗川,根田茂,砂子沢に分教場を設置。
●1947年4月:簗川村立川目小学校に改称。新制川目中学校を併置する。
●1953年4月:簗川,根田茂,砂子沢に分教場が分離し独立校となる。
●1955年2月1日 盛岡市に編入され、盛岡市立川目小学校と改称。併設の川目中は74年に河南中に統合のため廃止。
●1982年に簗川小、●98年には砂子沢小、根田茂小を統合した。
 百四十年の歴史は合併と学校統廃合の繰り返しだ。
 10数年前、根田茂、砂子沢を度々訪れていた時地元の方に「息子は孫の学校のことがあるので市内のアパート暮らしだ」と聞いた。学校の統廃合で学校が遠くなるにしたがい若い人と子どもの姿が見えなくなる。
 百周年時の児童数百十四人現在十二人。川目小の百四十年からいろんなことが見えてくる。
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「地方創生」はこんなさびしい集落をつくってはならないことではないのか。  (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-05-18 20:25 | 歴史てくてく | Comments(0)

今年1月5日JR仙北町駅開業100周年を迎えた。東京駅と同じ歴史なんですね。なぜか?盛岡駅の目立たないわんこロードで「仙北町開業100周年記念ー仙北町駅と原敬展」がささやかに行われている。
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 現在も営業しているそば処北田屋が当時発行した駅舎の絵葉書が展示されていたが、今も部分改築はしたものの当時の面影を残している。木造駅舎は全国的にも少なくなっており、貴重なものだ。
 盛岡駅が当初加賀野や肴町に計画され反対により、仙北町(当時本宮村)付近に計画されたが、農作物に影響が出る、舟運や馬車の仕事がなくなるなどの反対があり現在地(当時厨川村)に1890(明治23)年開業した。
 22年後の1912(明治45)年仙北町等の有志が仙北町駅設置期成同盟をつくり、原敬内務大臣兼任鉄道院総裁に仙北町駅設置の請願書を出した。
 原敬はこの請願に返事をしなかった。かって盛岡駅建設に反対があったことや盛岡駅から1.8キロしかないことを考えてのことだった。
 しかし地元の強い要望と原敬の努力で仙北町停車場設置が決まり、1914(大正3)年10月仙北小学校の運動会に招かれ工事中の駅舎を視察している。
 開業当時貨物駅としての役割をもち駅前には丸通をはじめ運送店が並んでいたという。
 地方から馬を運び、馬検場で馬を売りお金を懐に入れた馬主たちが家に帰る前に一杯ひっかけたのが仙北町駅付近のお茶屋だったという。仙北町駅でこの100年どんな物語が生まれただろう。   (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-01-20 22:18 | 歴史てくてく | Comments(0)

今年も中津川に鮭が帰ってきた。中の橋や上の橋から覗き込む市民の姿が秋到来を感じさせてくれる。
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 中心街の清流に架かる「中津川三橋」は、盛岡城の築城に伴い城下町割と架橋が進められ、上の橋が慶長十四(1609)年奥州道中から松前街道に係る一般庶民も通行できる重要な橋として創設。中の橋は、慶長十六(1611)年武士が通行する橋として架橋。下の橋は慶長十七(1612)年対岸の侍町を結ぶ搦め手口(城の裏門)の橋として架けられた。
 この時三戸城の熊原川の黄金橋の青銅擬宝珠を鋳直して上の橋と中の橋に移したと伝えられている。
 現在の下ノ橋の擬宝珠は、明治四十三(1910)年、中の橋が洋式架橋されたことにより移されたものだ。
 洪水で流されたり、架け替えで不明になったりで、橋梁についている擬宝珠は全国的にも数が少ない貴重なものだという。  度重なる大洪水の難を逃れ、戦時中の金属特別回収(戦時協力ということで昭和十八年に取り外された)も逃れて、上ノ橋の青銅擬宝珠十八個は国指定重要美術品、下ノ橋の青銅擬宝珠十八個は盛岡市指定有形文化財となっている。数々の難を乗り越えられたのは、擬宝珠を愛する先人たちの働きがあったのだろう。歴史的な財産として大事にしたいものだ。
                              (上の橋のスケッチと文  浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-11-10 21:20 | 歴史てくてく | Comments(0)

四月十二、十三日に行われた、旧暦の雛祭りは今年初めて仙北町の「森とひなまつり」がデビューし、見学者が殺到した。
 徳清倉庫、平野家、金沢家を見た人たちからは「お家も、庭も、お雛さまも立派だった」と喜びの声が上がり、歴史のまち仙北町に光があたった二日間だった。
 仙北町は、第二十七代南部利直の代(1600年頃)に秋田の仙北郡から移住してきた商人や職人を住まわせたということから生まれた町名だという。
 奥州街道から盛岡の入り口にあたる要所にあったことから城外にありながら特別に城下とされ、城下の二十三町に属して町奉行の管下にあり、検断や肝入りが置かれていた。
 二十九代重信公時代には、北上川に舟を並べてその上に板を渡した「新山舟橋」ができた。川岸に沿って舟橋を管理する船頭たちが住んでいた町を「水主町(かこちょう)」と呼んでいた。川の中心で管理が分かれており、鉈屋町側にも水主町があった。
 三十六代利敬公時代に二十万石に加増され、城下二十三町から二十八町になり仙北町から青物町が枝分かれした。
 米商人、種物屋、造り酒屋、藁物屋など軒を連ねた商人の町で賑わいのある町だったという。
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 2007年までは仙北もこんなまちなみが残っていた。
 道路拡幅でまちなみは消えつつあるが、今回改築公開された徳清倉庫などの建物から当時の繁栄が偲ばれる。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-06-06 22:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

何事もウマく行く年でありますように」と迎えた午年も、あっという間に二カ月も過ぎた。午年と言えば絵馬を思いだす。
 二度目の選挙に失敗し、三回目の選挙に再選を期して頑張っている時、大慈寺小学校の先輩の絵馬師故佐々木勉さんから必勝を祈る大きい絵馬が届いた。告示の日一頭に目を入れ、無事当選を果たしもう一頭の目を入れることができた。私の大事な宝物だ。(写真)
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 絵馬の歴史は古く、古代人にとって馬は神に等しく、初めは生馬を神に献上し降雨、止雨などを祈願したのがそもそもの起こりだという。
 時代の移り変わりで土馬、木馬そして板絵の「馬図」になり、さらに馬の絵だけではなく、絵巻、草紙、年中行事、武者、歌仙、芸能、生業、風俗などなどの絵を描いて諸願成就のために神社に奉納されてきた。板絵の図柄がどんなものでもすべて「絵馬」として扱われてきた。
 県内に現存する最古の絵馬は中尊寺蔵の「蒔絵繋馬図」(永禄七年ー一五六四年)だという。漆塗りだというから立派だろう。
 一般的には市内の神社所蔵の絵馬は、白木に墨で描かれ、色が塗られたものもあり、江戸時代のものも多く、藩お抱えの絵師が描いたものもあるという。
 誰がどんな願いを込めて奉納したものか?と思うと庶民の生活が見えてくるような気がする 絵馬の見て歩きも楽しいかもしれない。   (浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 22:02 | 歴史てくてく | Comments(0)

髪結いをしていた祖母は文盲だった。毎年「めくら暦」を売人から買っていた。ご飯粒で台所の板壁に張り付けるのが孫の私の役目で、毎年重ねて張り厚くなっていた。この面白い絵が暦だという不思議を解決しないで過ごしてきた。

 現存する最古の盛岡暦は天保十三(1842)年、作者は御印判師舞田屋理作で、版木印刷、売り暦だったという。
 さかのぼって天明三(1783)年現八幡平市の田山の田山暦が現存している。田山暦の影響受け盛岡暦が出来たという。

 「めくら」が差別用語だとの指摘で盛岡絵暦と配慮されているが、文盲の人たちのための絵文字は、祖母のように暮らしの中で欠かせないものだったろう。 途中途切れた時期もありながらも現在まで生き続けている貴重な民俗資料なのだ。戦後の苦難の時代南仙北三丁目の郷土史研究家の故佐藤勝郎さんも発行に尽力されている。
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 今年の南部めくら暦を解読すると、一段目の「塀と井形を背にしている男」で平成、重箱2つとサイコロ6個で二六年。二段目の歳徳神は今年の大吉の方向を示すもので、門の前に虎とウサギの絵、寅卯の間は東北東となる。と読めれば面白い!
 この一枚で自然と向き合って暮らしてきた人々に思いを馳せてしまった。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 21:53 | 歴史てくてく | Comments(0)

今年は宮沢賢治没後八十年ということで各地でイベントが盛んだった。
 岩手大学農学部植物園で行われた「秋の樹木めぐり」~賢治の童話のなかの樹たち~に参加し、賢治ゆかりの木や高等農林校舎跡地に建つ碑などを楽しんだ。宮沢賢治は大正4~9年まで盛岡高等農林で本科生、研究生として学んだ。
 800種余の植物が生育しているという植物園は市民の憩の場となっているが、この一帯は、藩政時代は盛岡藩名門の侍屋敷町だったということでその名残も興味をそそられた。

 最も注目されるのは、威風堂々と建つ大正元年建築の盛岡高等農林学校の本館だ。当時一階は校長室、事務室、会議室に、二階は大講堂として諸学校行事に使われていたという、青森ヒバを用いた建物は修復はしたものの建築当時の姿をとどめている学校建築の歴史を知る貴重なものとして国の重要文化財となっている。
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明治三十五年我が国最初の高等農林学校として創立されたが、同時に建てられた正門(現在の通用門)と「寄せ棟風八角」の造りの門番所も明治の価値ある建物として国重要文化財である。 岩手大学農学部植物園は、植物、樹木だけではなく宮沢賢治や歴史との出会いも楽しめる場所だ。    (浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 21:48 | 歴史てくてく | Comments(0)