カテゴリ:歴史てくてく( 28 )

月十四日秋祭り九台の山車による八幡下りパレード。見る場所は毎年決まって八幡町番屋の向かい側で、番屋の望楼と山車をツーショットでカメラに収めている。

 十一年前、議員時代に「番屋を解体新築で地元と合意できている」というなか、保存せよの市民運動と一緒に議会で粘って闘い、望楼だけは保存出来たというこだわりの建物なのだ。
 関係者の話によれば、明治十七年の大火で消失後、八幡の芸子さんたちがお金を出し合って建てたもので二階には舞台がありお稽古の場になっていた。隣には函番があり三味線がずらりと並んでいたという、当時の歴史を物語る貴重な建物だった。 昭和五二年保存建造物指定の対象となり調査したが、所有者が死亡などで特定できず指定されなかった。
 その調査報告書によれば「一般民家の町屋で、道路面だけ南京下見張の外壁と洋風の建具を使い、望楼は明治初期の洋風解釈を思わせる意匠で和洋折衷の形態をとっている」と評価している。県内の四つの望楼付の番屋のうち和洋折衷の番屋は八幡だけだった。
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 盛岡市職労委員長として活躍し、画家だった故藤村鼎さんが「陽子の宅急便縮刷版」発行の時、その表紙絵に寄せていただ
by yoko1939 | 2014-04-06 21:40 | 歴史てくてく | Comments(0)

西仙北1丁目の駒形神社祭典は九月八日賑やかに執り行われた。

 このお祭りは、仙北一丁目第一町内会と駒形自治会の両町内が駒形神社奉賛会をつくり実施しているが、舞台づくりにはじまり、協賛金のお願いやお祭りの運営や屋台までやっている。この地域力はすごい!
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 例大祭後の直で菊池満協賛会長が作成した駒形神社由緒と昭和初期の駒形神社の写真が配られた。
 それによれば、慶長四年(一五九九)南部二七代南部利直が盛岡城を築いた時に駒形神社も現在の地に移し、荘厳な社殿を築いたとある。昭和初期の写真には東北本線の単線も写っている。菊池さんのお話によれば境内は今の四倍もあり、立派な神楽殿や厩があったという。南部初代の南部光行が甲斐の国から従えて来た加藤京吉の子孫を御駒太夫として太神楽を各地で演じさせた。太夫の部下が神社に隣接した七軒に住んでいたことから「七軒丁神楽」の名がついた。

 七軒丁神楽を受け継いだ神楽は青森県や岩手県内各地で現在も演じられているが本家のこの地では舞い手が戦死して途絶えてしまったという。いつか七軒丁神楽を訪ねて歩きたいと思っているのだが・・・(浦川陽子
by yoko1939 | 2014-04-06 21:36 | 歴史てくてく | Comments(0)

本町1丁目の雑貨屋平野商店は、かって沿岸の人達の定宿「河権旅館」だった。
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 歴史に残る旅館と言われる所以は、三閉伊一揆の頭人畠山多助が、明治6年、地租改正反対一揆の嫌疑をかけられ捕えられ、河権旅館に宿預けとなり、厩で抗議の自決をしたのだ。
 平野家は「佐倉宋五郎のような立派な人」と、本誓寺の平野家墓地の一角に墓を建て葬った。
 弘化4年と嘉永6年の二度にわたり、三陸沿岸を中心にたたかわれた壮大な百姓一揆は「黒船以上に大きな事件だった」と大佛次郎も評しているが、嘉永の一揆の惣頭人が田野畑村の36歳の多助だった。「小○の旗」を掲げた一揆の一行は1万5千人に膨れ、45人の代表を選び仙台藩に「藩主の交替と御用金・重税は迷惑」と訴えた。
 一行は要求をほぼ実現し、処罰しないと約束させて、お墨付きまで勝ちっとった。お墨付の発見は一揆から百年後だった。
 いま、自民党は公約を破ってTPP参加にまっしぐら・・・ 岩手県の調査で、農・林・水産物への影響は1015億円、地域経済への影響も含めると1435億円に及ぶ。岩手の産業が破壊されてしまう。
 参院選では「小○」の旗を高く掲げ国民一揆を起こす時!         (浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 21:29 | 歴史てくてく | Comments(0)

大ケ生の瀧源寺の本堂が全焼。国の天然記念物のシダレカツラも焦がした」という。どうやら幹は無事らしい。
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 市民には馴染みの深い盛岡市の木シダレカツラは、世界に誇る珍木で、岩手県地方特有のカツラの変種だ。
早池峰山域で見つかり、岳の妙泉寺境内に移植し、大ヶ生の瀧源寺を開いた住職が、そのひこばえを瀧源寺境内に移植した。。
 シダレカツラの原木は雄株で、種子が付かず、挿し木では発根しないため増殖は難しいものだった。瀧源寺の根際から出るひこばえを育て、苗木をつくり、明治のはじめ、盛岡市内に植えられた一部が「門のシダレカツラ」と「肴町のシダレカツラ」だ。 この3本が1924年に国の天然記念物に指定されている。
シダレカツラの難しい増殖を苦心の末5年間にわたって昭和10年接ぎ木の方法で成功させたのが阿部善吉さんだった。
 その労を讃えて、直木賞作家森荘已池さんらが顕彰碑を大慈寺町の永泉寺の山門前に建てた。
 この碑の建立が昭和37年、阿部善吉さんが亡くなったのは昭和54年というから、庭師さんの生前に建てられている。とても親しみを感じる顕彰碑だ。
(文・絵 浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 21:09 | 歴史てくてく | Comments(0)

「手と足を もいだ丸太に してかへし」と詠んだ反戦川柳家の鶴彬が名須川町光照寺墓地に眠っている。
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 鶴彬(本名喜多一二)は石川県高松町で生まれ、上京し一九歳で反戦運動に加わり、「胎内の動きを知るころ骨(こつ)がつき 」など数々の反戦川柳を発表し続けた。
 治安維持法のもとで検挙されたが意志を貫き、二度目の検挙で獄中で赤痢にかかり病死した。二九歳の命だった。
 盛岡で染物屋を営んでいた兄が遺骨を引き取り光照寺の喜多家の墓に埋葬した。特高警察が見張る中での埋葬だったという。
 鶴彬は一八歳の時、東京にでたものの職探しには苦労し、川柳仲間の友人に「失職すると啄木が兄のように思われます」と啄木の短歌を引き手紙を送っており、盛岡との縁が一層強まった感じがする。
 今年は、治安維持法による大弾圧から八十五年となる。
 自民党は、参院選で憲法改悪を争点にすると憲法草案には「国防軍」を唱えている。
「戦争反対」を言っただけで捕えられ拷問され、殺された時代に逆戻りさせてはならない! 信念を貫き生きた鶴彬から歴史を学び後世に繋がなければとの思いが強まる。        (浦川陽子)
 
by yoko1939 | 2014-04-06 21:06 | 歴史てくてく | Comments(0)

大萱生金山跡万寿坑跡の近くに大萱生館跡がある。これは源頼朝の藤原氏攻撃に参加した河村秀清が、軍功により斯波郡河東を与えられ、その一党大萱生氏の居城が築かれていた跡だ。
 この時代(一五〇〇年代)から金の採鉱が行われていたという。その廃坑が明治三六年に元山で発見され三九年に郡司半助が大萱生金山として創業。
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 その後二人の経営主が移り変わり、大正五年住友合資会社が鉱業主となり 元山より矢巾駅間に鉄索を架空し、小坂・日立鉱山に売鉱していたという
 現在残っている万寿坑は大正八年から掘進が進められ坑道は上大萱生元山の大生坑につながっている。万寿坑の役割は湧水の排水と金鉱の排出だったようだ。
 昭和九年には元山~萬寿坑~製錬所~矢巾駅を索道でつなぎ精化製錬・浮遊選鉱場などが稼動し、最盛期には四百数十人の従業員がおり盛況だったという。 昭和一八年国策により、戦争で全ての産業が軍需産業へ切り替えられ閉山となった。
 この地域の繁栄の歴史を思うと、静かな農村の原風景もまた違って見えてくる。
  (浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 20:56 | 歴史てくてく | Comments(0)

盛岡城跡公園は、四月が訪れる人が一番多い。
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 盛岡城は、南部信直、利直、重直の三代の城主にわたる難事業で四十年を費やし一六三三年(寛永十年)に完成している。
 築城工事に動員された人夫は日々2、000人以上だったというから想像を超える。
 雪博士の高橋喜平さんは著書「岩手公園の四季」で「わたくしの頭を去来するものは、数多くの人々への思いである」とひどい苦役を強いられた人々へ思いを馳せ、「石垣にはそんな人たちの怨念がひそんでいただろう。長い年月がそれを流し夢とロマンをかきたてる」と見事な石垣を造った石工の技術をほめたたえている。
 良質な花崗岩を使った美しい石垣は高い評価を受け、盛岡城は、白河城、弘前城と並び東北の三大城跡といわれている。
 桜山神社の右側と菜園側のトイレの後ろの石垣に、築城の奉行の名前が刻まれているのも興味深い。下の橋教会の後ろには南部盛岡藩の彦お蔵がある。
 明治維新で政府に建物は壊されたが、国から南部家が四〇〇〇円で払い下げられたものを、県が譲り受け、明治39年に岩手公園が完成し、盛岡市に昭和9年移管となった。 
 いろんな変遷をたどってきた盛岡城跡公園の歴史散歩も面白いですよ ( 浦川陽子)
by yoko1939 | 2014-04-06 20:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

三月十一日、東日本大震災から二年目。震災後、犠牲者を悼み多くの方々が手を合わせている碑が盛岡にある。
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 盛岡市愛宕町の正伝寺の境内に建つ明治二十九年の「三陸大海嘯(つなみ)難死者供養」碑だ。
 結構大きい碑で真ん中に「三陸大海嘯(つなみ)難死者供養」と刻まれ、その両脇に「明治二十九年丙日六月十五日{旧暦}五月五日午後八時海嘯(つなみ) 岩手県死亡者二五、四一三人宮城県同三、三一四人青森県同三四六人総計二九、〇七三人当山二十四世帯心水代」とあった。
 
 碑の後ろに周って見たら、発起人と賛成者の名前が刻まれており、七回忌にあたる明治三十五年に建立されたものらしい。
 正伝寺の大黒さんに聞いたら「うちの寺の檀家は商売家さんが多い。沿岸に商売に行って犠牲になった方の関係者が建てたと思う」と話していた。
津波研究家の故山下文男さんによれば「青森県から宮城県にかけて沿岸には約二〇〇基あるが、内陸に津波の碑は珍しい」「岩手県の犠牲者は山奈宗真が調べた一八、一五八人が最も近い」という。正確な人数が把握できないほどの大津波だったことを実感させられた。
 今日も多くの方が花を手向けていた。「忘れないよ・・・」と手を合わせてきた。( 浦川陽子)
by yoko1939 | 2013-03-30 16:48 | 歴史てくてく | Comments(2)