戦後70年の今年、平和へ前進できる年にしたいとの国民の願いを踏みにじり安倍政権は「戦争法案」を衆院で強行採決・・怒りが広がっている。強行採決の国会を取り巻いた若者たちの姿に拍手!だった。 昨年末、1949年東大協同組合出版部から刊行された「きけわだつみのこえー日本戦没学生の手記」を手に入れた。どのページも茶色になっている。
 見返しの四枚の絵にくぎ付けになった。薄くなって伝えきれないが、
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写真の右の絵は終戦一か月前まだ立っている自分の姿「もうこれ以上はやせられまい」と添え書きがある。左は餓死10日前の痩せこけて立つことができない自分の姿。
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裏表紙の見返しはいろんな食べ物がいっぱい描いている中に自分がいて「これだけあれば病気はなほる」と添え書き。もう一枚は家族の似顔絵・・・。
 昭和18年東京美術学校卒業し、同年11月入営、20年8月19日宮古島陸軍病院で餓死した関口清さんの亡くなる直前のスケッチだ。
 日記には「俺はこの戦争のそして、人類のいやすべての結末がみたい。生きねばならぬ。貴重な寶を後世に残すべく、病魔と衰弱と、うえと、酷暑と戦わねばならぬのだ」そしてやがて春が来ることを確信していると記している。
 第二次世界大戦の日本戦没者は310万人、うち軍人が230万人、その6割が餓死者だといわれている。戦争を知るための一つの貴重な資料「きけわだつみのこえ」聴こう。   (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-11-10 23:30 | 歴史てくてく | Comments(0)

大河ドラマ吉田松陰の妹が主人公の「花燃ゆ」は視聴率が悪いようだが、「吉田松陰が盛岡に来た?」事に興味をもち数年前から追っかけをやっている。
 
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盛岡には嘉永5年(1852年)3月11,12日に滞在した。
 江戸の塾でともに学んだ南部藩の江端梧楼が兄の仇討をするという事に共感し、友人の肥後熊本の宮部鼎蔵とともに出発を赤穂四十七士討ち入りの12月15日と決めたが、藩からの手形が届かず、友人の約束を守り脱藩し出かけた。

 水戸に寄り、江端とは白河で別れ、松陰と宮部は会津に向かい、さらに日本海沿いを北上し、青森から南部に入り渋民を通って嘉永5年3月11日盛岡に入った。
上の橋を渡り紺屋町の村井茂兵衛に会い、夜を徹して国事を語り合い、経済的援助を受けたという。この日は石丁に泊ったと、松陰の旅日記には記されている。

 翌十二日山影村に息をひそめて暮らす江端梧楼の兄江端春庵の遺族を訪ね、梧楼の手紙を渡している。その足で春庵の墓参りしようと香殿寺(『内史略』には天福院とあるという)へ行ったが、春庵の仮葬所は処刑人の咎によって板塀で囲われていた。憤慨した2人は板塀に筆を走らせた。
 そんな気持ちを抑えきれずに北上川の舟橋を渡り奥州街道を南へ・・・津志田で妓楼が立ち並んでいるのを見た松陰は、木を倒し、良田をつぶして妓楼を建てている「南部の国事、実に悼むべきかな」と日記に記しいる。
 松陰21歳の旅は、外国船の侵入に立ち向かえる国になっているかを確かめる東北遊学だったが、盛岡ではもう一つの目的を果たした?と思う。  

 翌年南部百姓一揆最大の三閉伊一揆がおきたが、この事態を知った松陰は「そもそも民衆が困窮しているからこのようなことが起こるのだ」と兄に手紙を出している。 (浦川陽子)
by yoko1939 | 2015-11-10 23:03 | 歴史てくてく | Comments(0)