八幡平は花盛り

先日晴れていると思ってきてみたら、中腹からすっぽりと霧の中。1メートル先も見えず怖くなって登るのは断念!藤七温泉でゆっくりお湯に浸かって帰ってしまった。

今年はコバイケイソウが綺麗だと聞いていたので再挑戦!!今日は見事に晴れ渡っていた。花々が咲き乱れていた。
      山のアザミは可憐だ。
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蒲沼のふちに咲くキヌガサソウは時期が過ぎ緑色に変わっていた。

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ドラゴンアイで有名になった鏡沼を経て頂上へ・・・
様々な花に感動しながら八幡沼を一周・・・
八幡沼をバックにトウゲブキー                      
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避難小屋の前には車ユリがー
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ニッコウキスゲもそこかしこにー       
 
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ワタスゲも少ないが咲いていた
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やっぱり主役だったコバイケイソウ・・・群落もすごかった
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               おまけがついたーアサギマダラに会えた!!

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もう一つおまけがこれ!鳥海山が雲の上に浮いていた
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ラッキー!な一日だった。



# by yoko1939 | 2018-07-27 21:02 | 花・山だより | Comments(0)

歴史てくてく㉞数奇な運命!南部藩士「瀬山命助」


 前号の孔子像を守った瀬山陽吉氏の祖父、瀬山命助資章は、文化四年(1807)江戸南部藩下屋敷で生まれ、十九歳で東条一堂に入門。南部藩江戸屋敷詰めの御留守居役を務め、才腕を振るっていた。

 「天保の大飢饉」では、南部藩の窮地を救おうと、東北どこも凶作のなか東奔西走し、九州佐賀藩から「備前米」買い入れ、困難を乗り越え、船便で北上川をのぼり、コメの輸送に成功した。

 「出る釘は打たれる」で、上司や同僚に嫉妬され、三十三歳の時「身分不相応の借財をしたのは不届き」と家禄召し上げ逼塞(門を閉め昼の出入り禁止)を申し渡された。この時代、よく働く御留守居役ほど借財が増える仕組みで、この役を命じられると辞退する武士もいたという。

 大飢饉が続く中、南部藩では、百姓一揆が頻繁していた。それが幕府の知るところとなり、止む無く藩主の利済公は隠居し、長男の利義公に譲ったが、実権を握って離さなかった。そのため父子は不和となり、在職一年で利義公は父の命で隠居させられ、弟の利剛公が継ぐこととなった。

 有能な利義公を復位させようとする運動が起き、その中心となったのが、その師東条一堂と相談していた奥医師江帾春庵だった。この運動が発覚し、春庵は捕らえられ獄中で毒死した。

 この事件で、東条一堂の弟子だった瀬山命助・門治兄弟にも嫌疑がかかり、閉居が命じられた。嘉永五年(1852)3月12日、江帾春庵の弟、梧楼と交遊のあった吉田松陰が、山蔭村(現・茶畑)の春庵の遺族を訪ね、その足で

東中野見石の幽居を訪ねたが、命助は会わなかった。

 命助は、死を前に手記「思出艸」をまとめ門外不出とした。百年経過し、子孫が、長岡高人氏に託し南部藩士「瀬山命助物語」が出版された。歴史の片隅で不本意な一生を強いられたのだ…(浦川陽子)


# by yoko1939 | 2018-07-20 15:14 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉝数奇な運命「盛岡聖堂の孔子像」

以前から気になっていた「孔子像」が作人館にあったものだと知り孔子廟を見に出かけた。
 東中野を車で走り回って、四人に尋ねてやっと探し当てた。どの方も「孔子廟はどこですか?」と聞くと「ああ・・孔子さん」と親しげに答える。
 狭い急な道を登り切ったら、おしゃれな建物が現れた。 
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正式名称「盛岡聖堂の孔子像」として。盛岡市の文化財に指定されている。
 説明版によれば、盛岡藩で設置していた藩校を、慶応元年(一八五六)に「作人館」として現在中央通り一丁目の開校した。作人館では和漢一致(儒学と国学が教えとして一致する)の教育方針のもと、その象徴として大国主命と孔子を祀っていた。孔子像は第一五代藩主南部利剛が京都で制作させたものだという。
 明治五年(一八七二)の学制公布により廃校されることになり、孔子像は作人館の助教の太田代恒徳の私塾で保管されることになった。
 太田代が盛岡を離れることになり、私塾に最後まで残った弟子の瀬山陽吉に託した。
 説明文はここまでだが、陽吉はその後、恩師の遺志を継いで自宅内に保管してきた。大正四年(一九一五)有志と共に聖堂を建てようとしたが、成功しなかった。再度昭和八年(一九三三)聖堂建設会を立ち上げ自ら会長となり、寄付金を集め、昭和十一年(一九三六)完成。設計は盛岡出身の葛西万司、建設にあたっては村の人々や青年団員が勤労奉仕したという。 現在は陽吉の子孫が盛岡聖堂を守っており、十月二十五日に公開され、孔子像が見られるという。 孔子を祀る廟堂は全国十二あるが、中国風の珍しい建築は、他に例を見ないという。 (浦川陽子)

# by yoko1939 | 2018-07-07 11:18 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。


盛岡藩校「作人館」の校舎を使ってスタート

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現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。


移転新築より立派な教師を雇う算段を!と鈴木舎定が主張

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。


1913年現在地の新校舎に移転

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)


# by yoko1939 | 2018-05-20 21:25 | 歴史てくてく | Comments(0)

盛岡でひな祭りの最後を飾った~仙北町の小さなひな祭り

鉈屋町の旧暦のひな祭りは14,15日40軒の町家を開放して賑やかに行われた。残念ながらカメラを忘れみなさんが頑張って展示したお雛様を写せなかった。

盛岡でもいろんなところでお雛祭りが行われてきたが、今年の最後を飾ったのが「仙北町の小さなひな祭り」だった。金沢家で見せていただいた。毎年お雛様が変わるので楽しみだ。

江戸時代末期の古今びな4体を中心に2部屋にいろんなお雛様が飾っていた。
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茶坊主はどんなおはなししてるのかな~
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館びなは組み立てに2日かかったという。
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竜宮城のお雛様は乙姫様がお留守だという。
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江戸時代からいろんな物語を繋いできたんだろう~とお雛様に聞いてみたい気分だった。

今年の旧暦の3月3日は、4月18日だ。盛岡では寒い時期を避け旧暦でひな祭りをやっていた。我が家は、せっこぎして町内の老人クラブで作った和紙を使ってのお雛様に2か月近くも頑張ってもらった。
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17日まで開かれている海野一枝人形教室のひな祭りに出かけた。生徒さんが制作した様々な人形がいっぱいだった!
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# by yoko1939 | 2018-04-21 14:44 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

中央公園の近くでキジを見た!

体力の落ち込みが激しく意を決して昨年12月から中央公園の散歩を始めた。
雨には負けたが、雪が積もっている中や、風にも負けず、無理をせず週2回程度、3千から5千歩。
体力回復が見え始めて、何とか続けて来た。

忙しくて10日ぶりに出かけた。春が駆け足でやってきていることを実感!
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梅やこぶしが満開で岩手山がより美しく見える。早咲きの桜や十月桜も咲いていた。
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近くに残っている雑木林でキジを見つけた!!以前はここ一帯がで田んぼでキジも沢山鳴いていた。
大きく変わってしまった盛南開発の地域で残る自然にホッとする。

# by yoko1939 | 2018-04-19 22:43 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。

現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

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その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)
# by yoko1939 | 2018-04-19 22:23 | 歴史てくてく | Comments(0)

屋根より高いこいのぼり

太田を車で走っていら農家の軒先に「屋根より高いこいのぼり」が見えた。しかもバックは岩手山だー。
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最近は、屋根より高いこいのぼりを建てるところが少なくなってきた。この家の方に感謝だった。

# by yoko1939 | 2018-04-17 22:18 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

十月桜と四季桜は別物だった

昨日の岩手大学の十月桜・・・どうしても気になる。
大学のホームページを見たら「十月桜が開花しました」というお知らせに「お問い合わせは広報部へ」とあり、さっそく電話した。

「いつ植えられたのか?品種は何か?」と聞くと、しばらくして電話があり「調べたが、いつ植えたかわからない。八重咲きが十月桜で一重が四季桜だ」と教えていただいた。

十月桜の別名が四季桜だと思っていた・・・みなさんにも同じものと言い続けて来た。ごめんなさい( ^ω^)・・・

# by yoko1939 | 2018-04-17 22:10 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

岩手大学理工学部の十月桜が5分咲き

昨年春、岩手大学植物園をぶらぶらしている時、害虫被害を見に来ていた教授らしき人にあい、「工学部の十月桜が満開で綺麗です」と勧められたが見に行かなかった。とても気になっていたので1年ぶりに出かけてみた。

理工学部の正門を入ってビックリー見事!!大きい!しかも古木だ。普段目にしている十月桜とは違う!
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花も大きいし色も濃くきれいだと思ったら八重咲だという。満開になったら素晴らしいだろう・・待っていたい気分だった。
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小学校時代学校前の大慈寺の原敬の墓前に2本の桜が咲いており、春と晩秋に咲く桜が珍しく、よく見に行っていたが木は大きくならず、花も優しかった。思い出深い十月桜は四季桜ともいわれている。



# by yoko1939 | 2018-04-16 22:56 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


by yoko1939