カテゴリ:歴史てくてく( 32 )

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。


盛岡藩校「作人館」の校舎を使ってスタート

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現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。


移転新築より立派な教師を雇う算段を!と鈴木舎定が主張

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。


1913年現在地の新校舎に移転

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)


by yoko1939 | 2018-05-20 21:25 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。

現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

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その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)
by yoko1939 | 2018-04-19 22:23 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉛   正月の伝統行事「裸参り」

盛岡の裸参りは、112日、虚空蔵堂(こくぞうどう)を皮切りに、

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113日、酒買地蔵(さけかいじぞう)、114日、教浄寺(きょうじょうじ)、115日、盛岡八幡宮、120日、浅草観世音、126日、桜山神社と続く。

いつから始まったかは定かではないが、盛岡藩政時代に教浄寺の本尊「お阿弥陀さん」の年越祭に、除災招福、五穀豊穣を祈願したものが始まりで、旧年の厄を取り除き新年の福を招くという民俗信仰を曳くものだという。幕末から明治維新の混乱期にすたれてしまったが、日露戦争前に復活し、参詣先が八幡宮に代わり、武運長久を祈願するものになった。大正時代には、本来の民間信仰行事に復したが、昭和には、満州事変から第2次世界大戦には再び戦時色に覆われ、日の丸の鉢巻きを締め、日章旗を裸の肩にかけての参詣だったという。

昭和四八年発行の「もりおか物語」-八幡町かいわいーで、明治二十九年生まれの海沼さんが語っている「日露戦争のときの裸参りが忘れられながンすな。おやじが戦争サいったので、ガンゼない七ツ八ツの子どもたちまで裸になって、おふくろが手を引いて“武運長久”祈願のため裸参りをしたもンですよ」とー。

戦後混乱期に再び中断したが、昭和二十五年復活し、それぞれの寺社の年越祭に、盛岡市消防団の分団が伝統を重んじた正月行事として現在に引き継がれてきた。

裸参りの行列は、先頭に団旗を掲げ、纏、献膳、ハサミ持ちの順に裸の男たちが一列縦隊にゆっくりと進む。

装束は、頭に晒木綿をたたんで鉢巻きをする。口には白紙を三角にたたんだくわえ紙をする。吐く不浄な息を清める意味があり、寒さ防止に唐辛子を包んでいる。晒一反を腹に巻き、背には注連―シメー(ごぼう)を背負い、腰にはけんだい藁を垂れ、素足にわらじを履く。裸参りは、夕方の寒くなる時間帯に行われ、「寒参り」ともいわれ、勇敢な若者たちが挑戦してきた。歴史を振り返りながら、平和な時代の中で裸参りが続くことを願ってやまない。(浦川陽子)


by yoko1939 | 2018-01-14 20:38 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉚ 広島の原爆で命奪われた女優「園井恵子」

7月国連で122か国の賛成で核兵器禁止条約が採決された今年、8月6日と9日、広島と長崎に原爆投下された日を、特別な感慨を持って迎えた。

園井恵子(本名袴田トミ)も喜んでいるのではないかと盛岡市愛宕町の恩流寺の墓前に手を合わせた。

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園井 恵子は1913(大正2)年岩手郡松尾村で生まれ、翌年岩手町川口へ転居。川口尋常小学校卒業、盛岡の岩手女子師範付属小学校に学び、小樽高女に入学するが2年生の時周囲の反対を押し切って、あこがれの宝塚音楽歌劇学校入学、本科に進み数々の舞台で主役も務めた。そのまま宝塚にいたらトップスターになっていたと思うが、昭和17年、新劇の劇団苦楽座へ移籍。翌年、大映「無法松の一生」で坂東妻三郎と共演し吉岡夫人の役で一躍名声を博した。

暗黒の色濃くなっていた時代、治安維持法による弾圧が新劇界のも広がり苦楽座も解散。国策によってやむなく地方慰問を目的にする移動劇団「さくら隊」を結成。広島を根拠地として活動していたが、194586日、広島の原爆投下に遭った。この日は園井恵子の32回目の誕生日だった。2日がかりで神戸の知人宅にたどり着き「生きていた!」と抱き合って喜んだが同月21日原爆症で短い生涯を終えた。

岩手町川口に園井恵子のブロンズ像がある。園井と同級生だった元工藤医院の工藤剛嗣先生が先立ちとなって(園井恵子を顕彰する会)1996年8月21日(命日)に落成した。e0122199_20415240.jpg

碑文には、817日付け母への手紙(絶筆)が刻まれている。「本当の健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら元気でもりもりやります。やりぬきます。これからこそ日本国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うためのお役に立たなければなりません。」

園井恵子には終戦後の新しい日本の姿が見えていたのだ。生きたかっただろう・・・

思いを受け継ぎ、核兵器禁止条約に署名する政府を早く実現しなきゃ。


by yoko1939 | 2017-09-16 20:31 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉙戦後6年間の盛岡市立不来方中学校

この春、選抜高校野球大会に21世紀枠で出場果たした選手10人の不来方高校野球部が全国から注目を浴びた。「こずかた」と読み方を知ったとの声も多くうれしかった。65年前、大慈寺小学校を卒業し入学したのが不来方中学校だった。岩手公園南側の現在彦御蔵の所に校舎が建っていた。古い校舎の2階が1年生の教室で、窓は辛うじてガラス戸だったがその外側には格子がはめられていた。雨が降れば雨漏りがしてきてバケツがいくつも並んだ。なにせ柾葺きの屋根は古くなってだいぶ傷んでいた。
岩手公園の石垣はまだ整備されておらずでこぼこだった。男子はその石垣を登るのが昼休みの遊びだった。
昭和28年河南中学校が現在の茶畑に完成し、全校生徒が自分の机と椅子を持って公園下から茶畑まで行列つくって引っ越しした。
青春時代の懐かしい思い出の一コマだ。
さて?あの古いぼろ校舎の前身は何だったのか?と調べたらお宝が見つかった!2013年盛岡市立河南中学校創立60周年記念誌に詳しく掲載されていた。
 明治37年6月作人館中学部(前私立岩手医学校附属中学校普通学校)が新築開校。大正10年3月に同校廃校後、昭和15年まで岩手女子高校が使用。昭和17年から昭和22年まで盛岡市立青年学校(昭和21年に盛岡市立実業学校に校名変更)が使用、昭和22年4月に不来方中学校が開校(1年間実業学校と併設)した。
 そういえば・・・向かいにこれまたボロの岩手女子高の寄宿舎があり、使われていた。
不来方中学校は28年3月廃校まで6回生まで受け入れ、6年間で400余人が在籍した。1995年に同窓会の不来方石垣会が跡地にささやかな石碑を建てた。
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 不来方中学校の校歌の1番が「中津の流れ 清らかに 遠き郷土の 史を語る 緑の松は作人の 教え伝えて 窓匂う ああ由緒ある わが母校」だった。
 やっと校歌の意味が理解できた。作詞は当時国語の教師吉田慶治先生だった。あの世で「やっとわかってくれたか~」と笑っているかもしれない。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-05-24 10:55 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉘盛岡のもう一つの時鍾

盛岡城下のもう一つの時鍾は、明治18年集会所新築の資金集づくり売却されたという。それがどうして東京谷中の全生庵にたどり着いたのか?
2月に娘からプレゼントの旅を利用し全生庵へ行き時鍾に会ってきた。
全生庵は臨済宗国泰寺派。山岡鉄舟が幕末明治維新で国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立している。
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ご住職さんからお話を聞いたが「何も分からない。でも、鐘に明治に銘文を刻んでいる」というので、お許しを得て鐘楼に登って見た。目視では無理!住職さんが「銘文がありますから送ってあげます」という。
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住職さんからのメールでは、銘文には寄贈者と思われる山岡鉄舟はじめ4人の名前が刻まれ、明治23年11月5日撞初供養式が行われたことが分かった程度だった。
探し回ってやっと詳しい資料にたどり着いた!「県文化財調査報告書」によれば、南部藩の時鍾は3つあったらしい。一番古いのが花巻(1646.9)にあり、次が全生庵(1652.6)のもの、そして桜山神社の向かいにあるもの(1679.11)だという。もう一つあったのかー
全生庵の時鍾は、盛岡城のものだったが1657年に町方に下げ渡され城下斗米(とっこべ紺屋町東裏通の古称)に移設され、町方持ち(町方請負)の町鐘となった。それが、
十三日町に再移設され、明治維新まで同所で時を告げた。明治以降所有していた町会が、盛岡市民集会所杜陵館の建設資金捻出のため明治 18 年(1885)に売却したという。東京谷中全生庵の寺鐘の追銘に刻まれている4人の発願者のひとり、東京神田材木町の三崎芳之助から購入したものという。お寺に納まって本当に良かった。貴重な文化財がこれからも大事にされることだろう。 明治18年といえば前年の明治17年に河南地区一帯を焼き尽くす大火があった。被害は、家屋1432、土蔵46、神社6、寺院10、学校3、その他300余と焼野原となった。
当然十三日町の鐘楼も焼けていただろうし、早く集会所が必要だったことも、時鍾を売らなければならなかった事情も想像できるナー。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-03-22 23:01 | 歴史てくてく | Comments(0)

㉗盛岡城下の時鍾は2つだった

盛岡市先人記念館が毎年開催し11回目を数えた企画展「盛岡の古町名展」は今年「内丸かいわい」だった。
内丸地区は、藩政時代盛岡藩の政治の中心地で武家屋敷が並ぶ一帯だったが、現在ほとんど面影が亡くなってしまっている。展示の中で目に留まったのが「鶴が池」の側にある「時鍾」だった。
四代藩主南部重信公の子行信の提案で、盛岡城下に時を知らせるために2つ時鐘をつくり、1つは,城下外郭南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近),もう1つは,北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)に鍾撞堂を1679年(延宝7年)11月に設置した。
鐘銘は,聖寿禅寺大道和尚の作で,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられている。鐘の大きさは,竜頭まで2.03メートル(6尺7寸),惣廻り3.79メートル(1丈2尺5寸),指し渡し1.21メートル(4尺),輪口の厚さ0.15メートル(5寸),重重3.597キログラム(959貫100匁)あります。
三戸町にあった時鍾は、明治維新後に,盛岡城跡の内堀,鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転された。その後,1955年(昭和30年)頃まで鐘楼守がいて毎日盛岡の人々に時刻を知らせ,親しまれてきた。
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1967年盛岡市指定有形文化財に、2015年には県指定有形文化財となった。
現在は,6月10日の「時の記念日」と,元旦の除夜の鐘として年2回,鐘の音が復活している。時鍾の近所の方が「除夜の鐘を突きたいと思って並んだが、前の前の人が108人目でそれ以上は打たせてくれないんだよ!」と怒ってた。
最も注目したのは、もう一つの時鍾は東京都台東区谷中の全生庵にあるという。臨済宗国泰寺派寺院で山岡鉄舟が明治16年に建立したお寺だという。無事でよかった!でもどうして東京に行っちゃったのかなー?。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-01-30 17:59 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉖岩洞湖底に眠るミステリー

「岩洞湖底に眠る野田街道を歩く会」にワクワクしながら参加。
 9月上旬の数日間だけ岩洞湖の水位が下がり、湖底に沈んでいた野田街道が出現するのだ。
 湖底を歩いていくとあちこち周囲と色が違う場所がある。丸いものは何と縄文時代や平安時代の竪穴住居の跡だという。
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 長方形の形がいくつも並んでいるものは、穴を掘り落とし穴を作って動物を捕らえる仕掛けだという。
 盛岡市遺跡の学び館の神原さんの話によれば、岩洞湖周辺の薮川の遺跡は⒖カ所も確認されているが、発掘調査されたのは小石川遺跡のみだという。ここで発見されている土器石器は、縄文時代早期の8500年前から晩期2300年前、弥生時代の2300年前~1800年前、平安時代1200年前のもので、13000年前の旧石器時代終末期の石器も発見されているという。
 1万年前にこんな寒いところに人が住んでいた?どこから来たのか?どんな生活してたのか?興奮した。
 野田街道に到着。湖面から山に向かってくっきりと2.5mの道が見えた。湿地だったのではないか?道の中に小枝や茅のが縛ったものが敷かれている。
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 その道のそばに江戸時代から昭和にかけて宿だったと思われる大きな家の礎石が見られ、蹄鉄やビール瓶、食器のかけらなどが散乱していた。
 南部領内で最も製塩が盛んだった野田の塩を運んでくる道として「塩の道」とも呼ばれていた。
 野田街道を歩く予定が、縄文時代、平安時代に入り込み、知らない世界をさまよった気分の一日だった。岩洞湖底に眠るミステリーだった。
    (浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-12-16 21:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉕宮古街道の道標は歴史を物語る

「宮古街道を探る」催しに参加し、宮古街道のほんの一部、旧宇津野発電所から東山二丁目の「砂留の道標」まで歩いた。車で走っているとまったく気が付かないが、いたるところに街道らしき道が残っていることに驚いた。

 宮古街道は盛岡城下から宮古に達する街道で北上高地の区界峠や山中を越える難所が多い街道だった。沿岸から海産物を内陸に運び帰りは米雑穀を運び人々の暮らしを守る重要な役割を果たしていたため幾度となく筋の変更、改修を繰り返した。次第に閉伊川川沿いのルートとなっていった。
 
  宝暦5年(1755)頃から牧庵鞭牛和尚によって、平津戸~蟇目間が改修整備され、文政6年(1823年)には五戸の豪商藤田武兵衛によって新道が開削改修した。 文化年間(1804-1817)以降は異国船への海岸防備のため改修工事が行われている
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 今回訪れた砂留の道標は、寛延4年(1751)3月7日建立の庚申供養塔と寛政12年(1800)6月9日建立の「庚申供養塔」は「右宮古道、左山道」とある。文化年間(1807年)正月吉日建立の庚申塔に「右はかはめ(川目)みち「左はみやこみち」とある。かわめみちは、川目部落までの小道でその奥は開発不能と言われていた。そのルートを藤田武兵衛が新宮古道として切り開いた。
そのことを示すのが弘化二乙巳年(1845)2月16日の南無阿弥陀佛碑に「右はみやこしんみち」「左はみやこみち」とある。この新宮古街道が本道として活用された。

道標は歴史を物語る重要なものだった。気にもかけてなかった道標がとても愛おしく感じられた。
(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-11-01 19:40 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉔オール沖縄をオール日本に

「平和憲法のある日本へ早く復帰したいというのが沖縄の人たちの願いでした。ところが復帰しても沖縄は全然変わらなかったのです。今も変わりません。今回の女性遺棄事件は沖縄の人たちは助けてあげれなかった・・・と苦しみ、そして怒りでいっぱいです」と平和ガイドの第一声だった。

 50年間沖縄の祖国復帰と基地撤去を闘う人々を撮り続けてきた写真家「嬉野京子さんと行く沖縄本島・伊江島ツアー」に参加し、米軍基地と3か所の闘うテント村を走り回った。

 東村高江では、オスプレイが着陸するヘリパッド建設計画を2カ所は作られたが4カ所はストップさせているという。この基地には柵がなく訓練中の米兵が突如民家の庭先に顔を出すこともあるという。ベトナム戦争の時、地区住民をベトナム人にみたて訓練したという。

 ⒒人の児童と一般6人死亡、220余名の重軽傷者をだした米軍のジェット機が墜落した宮森小学校の慰霊碑の前で体験者の方のお話を聞いた「50歳まで話せなかった。二度と繰り返えしてはならないと話すようになった。今回の女性遺棄事件の犯人はは米人だが、第二の犯人は日米政府だ」と強調。
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 座り込み4422日目の辺野古団結小屋では「基地計画は、軍艦を寄港できる新しい基地を作って永久に固定化することが目的で、普天間からの移転ではない。オール沖縄で新基地は絶対作らせない闘いをやっている」と説明受けた。
「沖縄ではいまだに戦争が続いている!」ことを実感。そして沖縄を戦後にするためには、オール日本を実現し政治をを変えなければ痛感してきた。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2016-06-01 22:52 | 歴史てくてく | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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