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歴史てくてく㉟盛岡藩校「作人館」・額は仁王小学校

仁王小学校の三つの宝が①「作人館」の額②「作人館」の銘がついた鉄瓶③作人館の井戸端にあった庭石だという。このお宝にお目にかかりたいと思って仁王小学校をお訪ねした。
 ひと教室にぎっしりと豊富な資料を展示、立派な資料館にびっくりした。勿論、お宝の、作人館の額や鉄瓶にも会えた!150年の歴史をずしんと感じた。
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 盛岡の藩校「作人館」は幕末、藩士教育のための藩立学校だった。
 藩立武術道場「御稽古所」の約130年の歴史を経て、日影門外小路門へ新築移転した後、このお稽古所で儒学講義が始まり天保11年(1840)「明義堂」と命名し藩校の一歩を踏み出した。
 すでに仙台藩はこの百年前に藩校を開校。東北各藩でも1700年代後半に、次々藩校を開設していた。盛岡藩が大幅に立ち遅れたのは、2回にわたって儒者弾圧事件によって儒学を信奉していた藩士が多数厳罰に処されたことが影響している。
 明義堂は、加えて医学教育を採用したため手狭になり、これまでの敷地の隣接地(現中央通り北日本銀行隣)に新築した。こうして、文学、武術、医学を教える藩校として「作人館」と改称。当時の教授江帾五郎(のちの那珂通高)が学制改革を行い、水戸学の和漢一致、文武不岐を基本方針とした教育が行われた。生徒数は約700人で、入学金も授業料も無料。藩費で賄ったという。
 原敬、新渡戸稲造、佐藤昭介(北海道帝大総長)など多くの人材を輩出している。
 戊辰戦争で2年間休校後、再開したが、廃藩のため「盛岡県学校」に転換し、明治5年(1872)学制頒布により廃校となった。
 庭石も仁王小学校の正面玄関の左に座していた。  (浦川陽子)

by yoko1939 | 2018-11-14 20:12 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉞数奇な運命!南部藩士「瀬山命助」


 前号の孔子像を守った瀬山陽吉氏の祖父、瀬山命助資章は、文化四年(1807)江戸南部藩下屋敷で生まれ、十九歳で東条一堂に入門。南部藩江戸屋敷詰めの御留守居役を務め、才腕を振るっていた。

 「天保の大飢饉」では、南部藩の窮地を救おうと、東北どこも凶作のなか東奔西走し、九州佐賀藩から「備前米」買い入れ、困難を乗り越え、船便で北上川をのぼり、コメの輸送に成功した。

 「出る釘は打たれる」で、上司や同僚に嫉妬され、三十三歳の時「身分不相応の借財をしたのは不届き」と家禄召し上げ逼塞(門を閉め昼の出入り禁止)を申し渡された。この時代、よく働く御留守居役ほど借財が増える仕組みで、この役を命じられると辞退する武士もいたという。

 大飢饉が続く中、南部藩では、百姓一揆が頻繁していた。それが幕府の知るところとなり、止む無く藩主の利済公は隠居し、長男の利義公に譲ったが、実権を握って離さなかった。そのため父子は不和となり、在職一年で利義公は父の命で隠居させられ、弟の利剛公が継ぐこととなった。

 有能な利義公を復位させようとする運動が起き、その中心となったのが、その師東条一堂と相談していた奥医師江帾春庵だった。この運動が発覚し、春庵は捕らえられ獄中で毒死した。

 この事件で、東条一堂の弟子だった瀬山命助・門治兄弟にも嫌疑がかかり、閉居が命じられた。嘉永五年(1852)3月12日、江帾春庵の弟、梧楼と交遊のあった吉田松陰が、山蔭村(現・茶畑)の春庵の遺族を訪ね、その足で

東中野見石の幽居を訪ねたが、命助は会わなかった。

 命助は、死を前に手記「思出艸」をまとめ門外不出とした。百年経過し、子孫が、長岡高人氏に託し南部藩士「瀬山命助物語」が出版された。歴史の片隅で不本意な一生を強いられたのだ…(浦川陽子)


by yoko1939 | 2018-07-20 15:14 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉝数奇な運命「盛岡聖堂の孔子像」

以前から気になっていた「孔子像」が作人館にあったものだと知り孔子廟を見に出かけた。
 東中野を車で走り回って、四人に尋ねてやっと探し当てた。どの方も「孔子廟はどこですか?」と聞くと「ああ・・孔子さん」と親しげに答える。
 狭い急な道を登り切ったら、おしゃれな建物が現れた。 
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正式名称「盛岡聖堂の孔子像」として。盛岡市の文化財に指定されている。
 説明版によれば、盛岡藩で設置していた藩校を、慶応元年(一八五六)に「作人館」として現在中央通り一丁目の開校した。作人館では和漢一致(儒学と国学が教えとして一致する)の教育方針のもと、その象徴として大国主命と孔子を祀っていた。孔子像は第一五代藩主南部利剛が京都で制作させたものだという。
 明治五年(一八七二)の学制公布により廃校されることになり、孔子像は作人館の助教の太田代恒徳の私塾で保管されることになった。
 太田代が盛岡を離れることになり、私塾に最後まで残った弟子の瀬山陽吉に託した。
 説明文はここまでだが、陽吉はその後、恩師の遺志を継いで自宅内に保管してきた。大正四年(一九一五)有志と共に聖堂を建てようとしたが、成功しなかった。再度昭和八年(一九三三)聖堂建設会を立ち上げ自ら会長となり、寄付金を集め、昭和十一年(一九三六)完成。設計は盛岡出身の葛西万司、建設にあたっては村の人々や青年団員が勤労奉仕したという。 現在は陽吉の子孫が盛岡聖堂を守っており、十月二十五日に公開され、孔子像が見られるという。 孔子を祀る廟堂は全国十二あるが、中国風の珍しい建築は、他に例を見ないという。 (浦川陽子)

by yoko1939 | 2018-07-07 11:18 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。


盛岡藩校「作人館」の校舎を使ってスタート

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現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。


移転新築より立派な教師を雇う算段を!と鈴木舎定が主張

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。


1913年現在地の新校舎に移転

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)


by yoko1939 | 2018-05-20 21:25 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉜ 145年目を迎えた仁王小学校の明治期

ピカピカの新1年生は、東日本大震災をお母さんのお腹の中で体験し混沌といている時に誕生した。今年145年目の県下最古の仁王小学校には50人が入学した。

現在中央通り1丁目北日本銀行本店隣の日影門緑地周辺一帯に、江戸末期から明治初期まで盛岡藩校「作人館」があり、敷地面積は1920坪、建物は総檜造りだったという。

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その校舎を使って1873年(明治6410日日影門外小路第1番小学校として創立された。それから1947年(昭和22)4月1日仁王小学校と落ち着くまで、制度の改廃によって13回も校名が移り変わっている。

三田地敏夫氏著「仁王学校物語」によれば、1879年(明治12)に、市中の道路改正があり仁王小学校の真ん中を通り、廊下や教室が断ち切られその部分にはムシロをつるして風雨をしのんだという。さっそくあだ名がついて「ムシロ学校」呼ばれていた。これではひどいと仁王・上田両村の有志が相談し改築工事を行い、1881年(明治14)年11月に望楼付きの2階建ての洋風建築の学校が完成した。

当時、移転新築の話もあり「もりおか物語」内丸・大通りかいわいーに面白い話として載っている。岩手の自由民権運動の先頭に立って活躍していた鈴木舎定が明治12年2月発行の「盛岡新誌」に、仁王学校新築について意見を掲載している。移転新築しても立派な教師を雇わなければ立派な学校にならない。「学校を移して新築することは止め、今の学校を普請して、立派な教師を雇う算段をナサイマセ」と言っている。

この頃は「公立仁王小学校」との校名で生徒数は男247人、女19人だったというから、「女に学問はいらない」と言われていた時代だったのだ。

1910年(明治43)の大水害で中津川が大氾濫し、現在杜陵小学校の場所にあった城南小学校も流失し、生徒が仁王小学校に移り膨れ上がってしまった。市会で両校の移転新築を可決。四ツ家町裏(現在地)に1913年(大正2年)8月、田んぼの中の6600坪の敷地に総2階でコの字型のすばらしい近代建築の学校が完成した。9月には4日間休校し、生徒たちも何回も往復し引っ越しをしたという。

(浦川陽子)
by yoko1939 | 2018-04-19 22:23 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉛   正月の伝統行事「裸参り」

盛岡の裸参りは、112日、虚空蔵堂(こくぞうどう)を皮切りに、

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113日、酒買地蔵(さけかいじぞう)、114日、教浄寺(きょうじょうじ)、115日、盛岡八幡宮、120日、浅草観世音、126日、桜山神社と続く。

いつから始まったかは定かではないが、盛岡藩政時代に教浄寺の本尊「お阿弥陀さん」の年越祭に、除災招福、五穀豊穣を祈願したものが始まりで、旧年の厄を取り除き新年の福を招くという民俗信仰を曳くものだという。幕末から明治維新の混乱期にすたれてしまったが、日露戦争前に復活し、参詣先が八幡宮に代わり、武運長久を祈願するものになった。大正時代には、本来の民間信仰行事に復したが、昭和には、満州事変から第2次世界大戦には再び戦時色に覆われ、日の丸の鉢巻きを締め、日章旗を裸の肩にかけての参詣だったという。

昭和四八年発行の「もりおか物語」-八幡町かいわいーで、明治二十九年生まれの海沼さんが語っている「日露戦争のときの裸参りが忘れられながンすな。おやじが戦争サいったので、ガンゼない七ツ八ツの子どもたちまで裸になって、おふくろが手を引いて“武運長久”祈願のため裸参りをしたもンですよ」とー。

戦後混乱期に再び中断したが、昭和二十五年復活し、それぞれの寺社の年越祭に、盛岡市消防団の分団が伝統を重んじた正月行事として現在に引き継がれてきた。

裸参りの行列は、先頭に団旗を掲げ、纏、献膳、ハサミ持ちの順に裸の男たちが一列縦隊にゆっくりと進む。

装束は、頭に晒木綿をたたんで鉢巻きをする。口には白紙を三角にたたんだくわえ紙をする。吐く不浄な息を清める意味があり、寒さ防止に唐辛子を包んでいる。晒一反を腹に巻き、背には注連―シメー(ごぼう)を背負い、腰にはけんだい藁を垂れ、素足にわらじを履く。裸参りは、夕方の寒くなる時間帯に行われ、「寒参り」ともいわれ、勇敢な若者たちが挑戦してきた。歴史を振り返りながら、平和な時代の中で裸参りが続くことを願ってやまない。(浦川陽子)


by yoko1939 | 2018-01-14 20:38 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉚ 広島の原爆で命奪われた女優「園井恵子」

7月国連で122か国の賛成で核兵器禁止条約が採決された今年、8月6日と9日、広島と長崎に原爆投下された日を、特別な感慨を持って迎えた。

園井恵子(本名袴田トミ)も喜んでいるのではないかと盛岡市愛宕町の恩流寺の墓前に手を合わせた。

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園井 恵子は1913(大正2)年岩手郡松尾村で生まれ、翌年岩手町川口へ転居。川口尋常小学校卒業、盛岡の岩手女子師範付属小学校に学び、小樽高女に入学するが2年生の時周囲の反対を押し切って、あこがれの宝塚音楽歌劇学校入学、本科に進み数々の舞台で主役も務めた。そのまま宝塚にいたらトップスターになっていたと思うが、昭和17年、新劇の劇団苦楽座へ移籍。翌年、大映「無法松の一生」で坂東妻三郎と共演し吉岡夫人の役で一躍名声を博した。

暗黒の色濃くなっていた時代、治安維持法による弾圧が新劇界のも広がり苦楽座も解散。国策によってやむなく地方慰問を目的にする移動劇団「さくら隊」を結成。広島を根拠地として活動していたが、194586日、広島の原爆投下に遭った。この日は園井恵子の32回目の誕生日だった。2日がかりで神戸の知人宅にたどり着き「生きていた!」と抱き合って喜んだが同月21日原爆症で短い生涯を終えた。

岩手町川口に園井恵子のブロンズ像がある。園井と同級生だった元工藤医院の工藤剛嗣先生が先立ちとなって(園井恵子を顕彰する会)1996年8月21日(命日)に落成した。e0122199_20415240.jpg

碑文には、817日付け母への手紙(絶筆)が刻まれている。「本当の健康に立ち返る日も近いでしょう。そうしたら元気でもりもりやります。やりぬきます。これからこそ日本国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うためのお役に立たなければなりません。」

園井恵子には終戦後の新しい日本の姿が見えていたのだ。生きたかっただろう・・・

思いを受け継ぎ、核兵器禁止条約に署名する政府を早く実現しなきゃ。


by yoko1939 | 2017-09-16 20:31 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉙戦後6年間の盛岡市立不来方中学校

この春、選抜高校野球大会に21世紀枠で出場果たした選手10人の不来方高校野球部が全国から注目を浴びた。「こずかた」と読み方を知ったとの声も多くうれしかった。65年前、大慈寺小学校を卒業し入学したのが不来方中学校だった。岩手公園南側の現在彦御蔵の所に校舎が建っていた。古い校舎の2階が1年生の教室で、窓は辛うじてガラス戸だったがその外側には格子がはめられていた。雨が降れば雨漏りがしてきてバケツがいくつも並んだ。なにせ柾葺きの屋根は古くなってだいぶ傷んでいた。
岩手公園の石垣はまだ整備されておらずでこぼこだった。男子はその石垣を登るのが昼休みの遊びだった。
昭和28年河南中学校が現在の茶畑に完成し、全校生徒が自分の机と椅子を持って公園下から茶畑まで行列つくって引っ越しした。
青春時代の懐かしい思い出の一コマだ。
さて?あの古いぼろ校舎の前身は何だったのか?と調べたらお宝が見つかった!2013年盛岡市立河南中学校創立60周年記念誌に詳しく掲載されていた。
 明治37年6月作人館中学部(前私立岩手医学校附属中学校普通学校)が新築開校。大正10年3月に同校廃校後、昭和15年まで岩手女子高校が使用。昭和17年から昭和22年まで盛岡市立青年学校(昭和21年に盛岡市立実業学校に校名変更)が使用、昭和22年4月に不来方中学校が開校(1年間実業学校と併設)した。
 そういえば・・・向かいにこれまたボロの岩手女子高の寄宿舎があり、使われていた。
不来方中学校は28年3月廃校まで6回生まで受け入れ、6年間で400余人が在籍した。1995年に同窓会の不来方石垣会が跡地にささやかな石碑を建てた。
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 不来方中学校の校歌の1番が「中津の流れ 清らかに 遠き郷土の 史を語る 緑の松は作人の 教え伝えて 窓匂う ああ由緒ある わが母校」だった。
 やっと校歌の意味が理解できた。作詞は当時国語の教師吉田慶治先生だった。あの世で「やっとわかってくれたか~」と笑っているかもしれない。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-05-24 10:55 | 歴史てくてく | Comments(0)

歴史てくてく㉘盛岡のもう一つの時鍾

盛岡城下のもう一つの時鍾は、明治18年集会所新築の資金集づくり売却されたという。それがどうして東京谷中の全生庵にたどり着いたのか?
2月に娘からプレゼントの旅を利用し全生庵へ行き時鍾に会ってきた。
全生庵は臨済宗国泰寺派。山岡鉄舟が幕末明治維新で国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立している。
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ご住職さんからお話を聞いたが「何も分からない。でも、鐘に明治に銘文を刻んでいる」というので、お許しを得て鐘楼に登って見た。目視では無理!住職さんが「銘文がありますから送ってあげます」という。
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住職さんからのメールでは、銘文には寄贈者と思われる山岡鉄舟はじめ4人の名前が刻まれ、明治23年11月5日撞初供養式が行われたことが分かった程度だった。
探し回ってやっと詳しい資料にたどり着いた!「県文化財調査報告書」によれば、南部藩の時鍾は3つあったらしい。一番古いのが花巻(1646.9)にあり、次が全生庵(1652.6)のもの、そして桜山神社の向かいにあるもの(1679.11)だという。もう一つあったのかー
全生庵の時鍾は、盛岡城のものだったが1657年に町方に下げ渡され城下斗米(とっこべ紺屋町東裏通の古称)に移設され、町方持ち(町方請負)の町鐘となった。それが、
十三日町に再移設され、明治維新まで同所で時を告げた。明治以降所有していた町会が、盛岡市民集会所杜陵館の建設資金捻出のため明治 18 年(1885)に売却したという。東京谷中全生庵の寺鐘の追銘に刻まれている4人の発願者のひとり、東京神田材木町の三崎芳之助から購入したものという。お寺に納まって本当に良かった。貴重な文化財がこれからも大事にされることだろう。 明治18年といえば前年の明治17年に河南地区一帯を焼き尽くす大火があった。被害は、家屋1432、土蔵46、神社6、寺院10、学校3、その他300余と焼野原となった。
当然十三日町の鐘楼も焼けていただろうし、早く集会所が必要だったことも、時鍾を売らなければならなかった事情も想像できるナー。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-03-22 23:01 | 歴史てくてく | Comments(0)

㉗盛岡城下の時鍾は2つだった

盛岡市先人記念館が毎年開催し11回目を数えた企画展「盛岡の古町名展」は今年「内丸かいわい」だった。
内丸地区は、藩政時代盛岡藩の政治の中心地で武家屋敷が並ぶ一帯だったが、現在ほとんど面影が亡くなってしまっている。展示の中で目に留まったのが「鶴が池」の側にある「時鍾」だった。
四代藩主南部重信公の子行信の提案で、盛岡城下に時を知らせるために2つ時鐘をつくり、1つは,城下外郭南東部にあたる河南地区の十三日町(現在の南大通2丁目付近),もう1つは,北西部にあたる河北地区の三戸町(現在の中央通3丁目付近)に鍾撞堂を1679年(延宝7年)11月に設置した。
鐘銘は,聖寿禅寺大道和尚の作で,鋳物師小泉五郎八が鋳造したものと伝えられている。鐘の大きさは,竜頭まで2.03メートル(6尺7寸),惣廻り3.79メートル(1丈2尺5寸),指し渡し1.21メートル(4尺),輪口の厚さ0.15メートル(5寸),重重3.597キログラム(959貫100匁)あります。
三戸町にあった時鍾は、明治維新後に,盛岡城跡の内堀,鶴ヶ池わき下曲輪(したくるわ)の土塁上の現在地に移転された。その後,1955年(昭和30年)頃まで鐘楼守がいて毎日盛岡の人々に時刻を知らせ,親しまれてきた。
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1967年盛岡市指定有形文化財に、2015年には県指定有形文化財となった。
現在は,6月10日の「時の記念日」と,元旦の除夜の鐘として年2回,鐘の音が復活している。時鍾の近所の方が「除夜の鐘を突きたいと思って並んだが、前の前の人が108人目でそれ以上は打たせてくれないんだよ!」と怒ってた。
最も注目したのは、もう一つの時鍾は東京都台東区谷中の全生庵にあるという。臨済宗国泰寺派寺院で山岡鉄舟が明治16年に建立したお寺だという。無事でよかった!でもどうして東京に行っちゃったのかなー?。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2017-01-30 17:59 | 歴史てくてく | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


by yoko1939
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