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吉田松陰追っかけ③松陰盛岡に入る

嘉永5年3月11日吉田松陰と宮部鼎蔵は中津川をわたって盛岡城下に入った。

松陰たちも旅の途中見かけただろうか?岩手公園に咲くまんさく(3月27日撮影)は春一番の花で、3月初めから咲き始める。
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織田久著「嘉永5年東北」によれば・・・
翌日12日山影村に江端梧楼の兄江端春庵の遺族を訪ねた。春庵の母と妻、2人の子どもが息をひそめて暮らしていた。母は「あなたたちを見ていると梧楼が目の前にいるようだ」と涙を流した。山蔭村はどこだろう?

その足で2人は春庵の墓参りしようと香殿寺(『内史略』には天福院とあるらしい)へ行ったが、春庵の仮葬所は処刑人の咎によって板塀で囲われていた。憤慨した2人は板塀に筆を走らせた。松陰の日記には「拝哭の余り、忼慨に堪えず、鼎蔵国風二首を題す。予も数句を題す」とあり日記にも記載されているが、誰かに目撃されていたらしく横川良助の「内史略」にも記録されているという。

板塀に書き記されていたものは織田久著「嘉永5年東北」を写させてもらう
「嘉永五年三月十二日、旅の士両人、(中略)板塀に直々、矢立墨坪を出し書きつけ置く、春庵は、江戸学者東条文蔵の門下にて文学世に鳴る者なりしが、さだめてその同門にして特に入魂(じっこん)にせし者なるべし云々、昼九ツ参拝す。
人衆勝天亦阿久 人衆(おお)ければ天に勝も亦何ぞ久からん
請俟他年天定時 請う他年天定まるの時を俟(ま)て。
男児報国一死足 男児国に報いば一死も足る。
黄泉之下君瞑目 黄泉のした君瞑目せよ。
  長門国松平大膳太夫家中 吉田大二郎(年齢三十一、二)
なき人をよその袂をしぼりつつ なみだのしづく手向けこそすれ
あはれいかに草葉の陰にて思うらん 同じこの葉の行末いかにと
  肥後熊本藩中 宮部鼎蔵増実(年齢二十一、二)」

宮部と松陰の年齢は取り違えているが、意識的であろう。仇討を志す江端梧楼と遺族への悲憤の思いがあふれている。

そんな気持ちを抑えきれずに北上川の舟橋を渡り奥州街道を南へ一時間ほど行くと津志田
で、道の両側に妓楼が立ち並んでいた。
松陰は日記に「津志田村を過ぐるに、方(まさ)に道樹を仆(たお)し、良田を廃して新たに妓楼数十家を起(た)てんとす。南部の国事、実に悼むべきかな」と記されていた。
by yoko1939 | 2013-03-31 22:32 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

吉田松陰の追っかけ②なぜ脱藩して東北の旅に出たのか?

2月10日に学んだ吉田松陰と盛岡がきっかけですっかりとりこになり、吉田松陰の追っかけをしている。

仙北活動センターの図書室で取り寄せてもらい織田久著「嘉永五年東北」-吉田松陰『東北遊日記』抄ーを借りて読んだ。とにかく面白かった!!
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なぜ脱藩までして旅に出たのかわかった
吉田松陰が東北の旅に出たのは嘉永5年(1851年)12月15日だった。同行者は親友の熊本藩士宮部鼎蔵と、浪人で亡兄の仇討に盛岡の戻るという南部盛岡藩士安芸五臓(本名江端五郎)だった。

 出発の日を安芸五蔵のことを思いやって赤穂四十七士の討ち入りの日を決めていた。ところが長州藩から旅行の許可は早々に下りていたものが、通行手形が手間取り出発の日に間に合わなかった。他藩の者に長州人は約束を守らない輩と思われるより亡命し一身に罪を負う道を選んだという。

 参勤交代を待って仇討をやるという安芸と白河で別れて、松陰と宮部は会津に向かったと。仇討を助勢するために旅に出たと思っていたのは間違いで、度重なる外国船の侵入に立ち向かえる国になっているのかを確かめる遊学だったらしい。
by yoko1939 | 2013-03-30 21:12 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

盛岡城を造った人々を思う散歩・・また楽し

いつももっと早く出かけていたが寒さがやっと和らぎ出かけた。岩手公園のまんさくは満開だった。
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吉田松陰の追っかけしているうちに、南部藩の歴史をちょっぴりかじり盛岡城の歴史にぶつかった。

 盛岡城は、南部信直、利直、重直の三代の城主にわたる難事業で四十年を費やし一六三三年(寛永十年)に完成している。
 築城工事に動員された人夫は日々2000人以上だったというから想像を超える。

 雪博士の高橋喜平さんは著書「岩手公園の四季」で「わたくしの頭を去来するものは、数多くの人々への思いである」とひどい苦役を強いられた人々へ思いを馳せ、「石垣にはそんな人たちの怨念がひそんでいただろう。長い年月がそれを流し夢とロマンをかきたてる」と見事な石垣を造った石工の技術をほめたたえている。

 良質な花崗岩を使った美しい石垣は高い評価を受け、盛岡城は、白河城、弘前城と並び東北の三大城跡といわれている。

 桜山神社の右側と菜園側のトイレの後ろの石垣に、築城の奉行の名前が刻まれているのも興味深い。下の橋教会の後ろには南部盛岡藩の彦お蔵がある。

 明治維新で政府に建物は壊されたが、国から南部家が4000円で払い下げられたものを、県が譲り受け、明治三九年に岩手公園が完成し、盛岡市に昭和九年移管となった。

盛岡城を造った人々を思いながら歩くのもまた楽しい散歩だ。 
 
by yoko1939 | 2013-03-26 19:52 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

3月11日正伝寺の明治の三陸津波供養碑に手を合わせる

三月十一日、東日本大震災から二年目。震災後、犠牲者を悼み多くの方々が手を合わせている碑が盛岡にある。
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 盛岡市愛宕町の正伝寺の境内に建つ明治29年の「三陸大海嘯(つなみ)難死者供養」碑だ。
 結構大きい碑で真ん中に「三陸大海嘯(つなみ)難死者供養」と刻まれ、その両脇に「明治二十九年丙日六月十五日{旧暦}五月五日午後八時海嘯(つなみ) 岩手県死亡者25、413人宮城県同3、314人青森県同346人総計29、073人当山24世帯心水代」とあった。
 
 碑の後ろに周って見ると、発起人と賛成者の名前が刻まれており、七回忌にあたる明治三十五年に建立されたものらしい。
 正伝寺の大黒さんに聞いたら「うちの寺の檀家は商売家さんが多い。沿岸に商売に行って犠牲になった方の関係者が建てたと思う」と話していた。

 津波研究家の故山下文男さんによれば「青森県から宮城県にかけて沿岸には約200基あるが、内陸に津波の碑は珍しい」「岩手県の犠牲者は山奈宗真が調べた18、158人が最も近い」という。正確な人数が把握できないほどの大津波だったことを実感させられた。
 今日も多くの方が花を手向けていた。「忘れないよ・・・」と手を合わせてきた。

夜、中学校1年の孫に「去年は大変だったねー暗いところで、寒くて寒くてペットボトルに毛布かけてあったまっていたねー」と言ったら、珍しく新聞を広げて震災2年の記事を見ていた孫は「俺らはたった3日で済んだんだから良いよ。この人たちはまだまだ続いてるんだよ」・・・・おっとー成長したね・・・と思いながら、思いを込めて「そうだねー」
by yoko1939 | 2013-03-11 16:02 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

南昌荘の雛祭り

昨日今日といくらか寒さが和らいでやっと南昌荘の雛祭りに足を運んだ。

村井家のお雛様は、明治17年の大火を蔵の中で生き延びた江戸時代のお雛様だという。5人囃が7人で、なんか賑やかなお囃子が聞こえてくるようだ。
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水原家のお雛様も江戸時代のお雛さまだが、端午の節句のお雛様が面白い。牛若丸と弁慶、弁慶が大男だということがよくわかる。
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桃太郎や犬、キジ、さるの家来も大きいのに退治された大きいはずの鬼はなんと小さいこと。面白い!
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星山家の御殿雛は、昨年は段飾りで御殿に入っているお雛様の顔がよく見られなかったが、平面飾りになってお顔をよく見えるようになった。飾り方も型にはまらないで良いんだ!
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三人仕丁(さんにんしちょうともさんにんじょうごともいうらしい)はなぜか二組あったが、こちらの三人仕丁が見てて愉快になってくる。
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三人仕丁は宮中の雑役を務めている人形で、五段目に飾られるもの。三人の顔を見ると、怒り上戸、泣き上戸、笑い上戸で人間の喜怒哀楽を表しているという。なんか一層親しみを感じた。
いろんなお雛様が飾ってあったがやっぱり古いお雛様に目が止まってしまう楽しいひと時だった。
by yoko1939 | 2013-03-02 22:59 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

「江戸期の今泉部落と吉田家住宅」講演聞いて思い出した・・・

岩手県立博物館日曜講座「江戸期の今泉部落と吉田家住宅」と題した講演があり、東北工業大学教授の高橋恒夫先生のお話を興奮しながら聞いてきた。

驚いたのは今泉部落の歴史だ。「仙台藩気仙郡の部落の住宅は、世界遺産の候補になっても良いくらい遺産が多い。北方社会の中心が陸前高田だ」という。しかも2年後には1300年になるという。なんと~奈良と同じくらいの歴史があったんだ~。この話を聞いただけでもこのまちを飲み込んだ津波が憎い!

住宅の特徴は、1軒につき3棟の付属家があり、必ず奥に抜ける屋根のかかった路地があり、2階家では2階に旅人を泊めたという。

陸前高田の市のHPにまだ写真が残っていた!
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街道沿いの御免町は文字の通り税を免除されていた町で、醤油や酒などの醸造などが盛んで間口が広い町屋が多かったと言われています。町並みでも随所にその名残が見受けられものだったようだ。
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特に「八木澤商店」は平入りの店蔵と妻入りの土蔵が街道沿いに軒を連ねその真ん中に門を設えるといった豪商の構えを見せていた。見たかった!!
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町のほぼ中央に位置した大肝入吉田家があった。気仙大工が棟梁だったという吉田家住宅は当時の姿を留めていて茅葺きの大屋根が当時の雰囲気を伝えていたという。岩手県の指定文化財となっている。

震災後、吉田家を復元しようという動きが出てボランティアさんたちが流された木材を集め80%くらいは集まっているそうだ、
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江戸時代の絵図をもとに高橋先生の研究室がまちなみの模型を製作したものも流され、昨年復元したものが県立博物館に展示されていた。

吉田家の当主も一家でさんかしており、奥さんが「危ないから逃げろ!」と言われ着の身着のまま逃げたら、後ろのほうでバリバリと家の壊れる音がして「あー戻れないな」と思った。伊達正宗直筆の書付が流されたのが悔しい!と話された。
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講演を聞いて本当に悔しくなった。思い出した!!10年前2003年8月7日に後援会のバスハイクでケンカ七夕を見に行った。日中だったので海岸近くでのケンカ七夕を見てきた。
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地元の方からケンカ七夕の由来など聞かせてもらい。「夜のケンカ七夕は迫力あって良いぞー」いつか必ず行こうといってたのに・・・これが今泉のまち中で繰り広げられていたものだった。残念!
by yoko1939 | 2013-02-24 22:26 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

吉田松陰が盛岡に来た・・・勉強になった!

2月10日(日)盛岡劇場で開かれた「盛岡に足跡を残した著名人」と題する、聞き語り もりおか歴史散歩に行った。

「吉田松陰が盛岡に来て穀町の宿屋に泊った」という話を聞き、どうして盛岡に来たのだろう?と何十年も疑問を抱いたままだった。

その疑問が解けるという期待を持って参加してみたら、なんと江戸時代栗山大膳、菅江真澄から昭和初期の芥川龍之介、ヘレンケラーまで20人を超える人の盛岡におけるエピソードが話された。

興味を持っていた吉田松陰は熱心に聞いてきた。

江戸の塾で一緒だった那珂梧楼が投獄死したが兄江幡春庵の仇を打つというので、吉田松陰は友人の肥後熊本の宮部鼎蔵とともに仇討の手伝いをすると来たが、仇討の相手は亡くなっていたため仇討にはならなかったが、盛岡には嘉永5年(1852年)3月11~12日滞在したという。

東北を旅した日記を「東北遊日記」を書いており、盛岡では、長田町のお寺の塀に漢詩をを書いたり、津志田の遊郭を見て「南部藩はこれで良いのか」と嘆いたりした。というー。

さてー那珂梧楼?宮部鼎蔵?知らない!
どうやら旅日記が残されているようだ。

ネットで探ってみたらあった!あった!!

 「東北遊日記」には「十一日 晴。未後雨あり。村を發す。渋民を經て盛岡に至り、中津川の橋を渡りて、村井京助を訪ふ。石町に至りて宿す。行程三里。是れ南部美濃守二十萬石の都なり」と書いてあるらしい。
やっぱり穀町に泊ったんだ・・・村井京助?と調べたら呉服商「鍵屋」という豪商だった。尊王の志が篤く,江幡春庵,目時隆之進,吉田松陰らと交友しており、後に4代目村井茂兵衛となった。

那珂梧楼は、
漢学者。18歳の時,藩主利済(としただ)の近習に挙げられるが,脱藩し、江戸,京都,安芸などを遊学,多くの士と交友を結び、その中に吉田松陰がいた。
1849年(嘉永2年),梧楼の兄春庵(しゅんあん)が利済(としただ)の側近田鎖左膳に捉えられ獄死する。これを聞いた梧楼は仇討を画策,吉田松陰,宮部鼎蔵(ていぞう)とともに奥州に下るが先に利済(としただ)派が失脚,ついに本懐を遂げることができなかった。
後日、盛岡藩が藩校明義堂教授として迎えた。1865年(慶応元年)には藩校の名称を作人館と改めるとともに,梧楼の唱える「和漢一致」が学風として取られ,名実ともに盛岡藩校の中心となった。
盛岡の先人として先人記念館に顕彰されているという。知らなかった・・・

宮部鼎蔵
吉尊皇攘夷派の活動家である。吉田松陰が20歳の時、九州遊学中に10歳年上の宮部鼎蔵と会い盟友となり、東北遊学を共にする。
元治元年(1864年)6月5日 池田屋で会合中に新選組に襲撃され、奮戦するが自刃する(池田屋事件)。享年45。明治24年(1891年)に従四位を贈られている

吉田松陰は萩市と世田谷に松陰神社がありすごい人だとは思っていたが・・・29歳で処刑されている。時代を切り開いた一人であることは間違いない。

インターネットはお利口さん!とにかく勉強になった。
by yoko1939 | 2013-02-18 17:27 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

トップをきった雛祭りーもりおか歴史文化館の人形展

盛岡の雛祭りのトップを切ったのが、もりおか歴史文化館の「館蔵人形展」~季節を彩る人形たち~が3月10日まで開かれている。
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日曜日とあって多くの人たちが足を運びボランティアの説明を聞いていた。
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盛岡の豪商「糸冶」さんの雛人形が飾られていた。説明が丁寧でわかりやすい。上段向かって右から白内裏、白后、黒内裏、黒后、青内裏、青后。
二段目が平安時代の歌人で、玉津嶋明神、文屋康秀、僧正遍照、大友黒主、喜撰法師、在原業平、小野小町。

3段目が両端が歌人の右が山部赤人、左が柿本人麻呂(写真は切れてしまった)。その隣にそれぞれ左大臣、右大臣。この4人に囲まれて五楽人が右から鞨鼓、笙、火焔太鼓、篳篥、横笛だそうだ。

内裏雛の並べ方は、古来より左が(向かって右)が上位とされており、男雛も左だったが、明治時代になり西洋文化の影響で大正天皇が即位の礼のとき西洋式で、天皇が右(向かって左)皇后が左(向かって右)にならい雛業界が変えてしまった。京都など関西では伝統を重んじ古式のままの飾り方をしているといいます。
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新穀町にあった糸冶
糸冶は天明2年(1782)盛岡に創業。呉服屋古着を中心に扱った呉服商として城下で屈指の豪商だった。新穀町から中央公民館敷地に移築され、国指定の重要文化財となっている。

新穀町で生まれ育った者から言わせていただけば、今も現存する県文化財指定の木津屋さんの向かいにあった糸冶さんがそのままあの場所にあったらよかったのに・・・と残念でしょうがない。
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裏紋は蔦・・・商売繁盛、子孫繁栄の願い
説明ボランティアの方が熱心にいろんなことを教えていただいた。これが糸冶さんの家紋で。裏家紋が蔦なそうだ商売繁盛を願ってのこと。徳川家の裏紋も蔦で子孫繁栄を願ってのことだという。


もう一つ糸冶さんの話で興味深かったのは、火災で焼けた後の再建した建物の店先に、焼け焦げた柱を使っているという。火の用心の意味が込められているという。建物は見たことがあるがそこまで見なかった・・・
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幕府が享保雛人形の高級化をいさめる方針を示す
享保雛は50センチ近くもある大きなものだ。享保(1716~1736)の時代に「享保雛」が流行し、どんどん大型になり幕府は享保6年に(1721)に「8寸(約24センチ)以上のものの製作を禁ずる」と取締令を発したという。
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雛屏風は「農耕図」
雛屏風は花とか松に鶴などの屏風が多いように思っていたが、田植えと刈り入れの屏風にひきつけられた。絵師は海野楳岳とあった。どんな背景があるのかナー
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もう一つ興味を注がれたのは、「十軒店の雛市」(天保年間に発行された雑誌の挿絵)
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と明治中期に発行された「雛拝見」(千代田の大奥より)の錦絵。

どちらも当時の生活様式がわかる面白いものだった。

今回の人形展は説明文とボランティアさんの丁寧な説明でとても勉強になった楽しい時間だった。
by yoko1939 | 2013-02-10 13:48 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

雪の日の盛岡

今年は寒いうえに雪が多い。今日も雪・雪・雪・・・・朝早く近所の人たちが出て雪かき。90歳を超えている方も一番早く出て我が家が出るころには終わっているというすごい方もいる。元気をもらっているのだが・・・・やっぱり雪かき終わればぐったり・・・・

先日手に入れた寒干し大根も雪で包まれていた。
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雪降りのなか出かける。車の中から停止信号でパチリ・・・

上の橋の欄干と下の橋教会。バックが岩手公園。
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岩手公園の菜園側の入り口。石垣も雪ですっぽり・・・・
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裁判所の交差点。ユリノキが2本ある。殻とが花を咲かせたように冬も楽しませてくれる木だ。
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殻とに雪帽子をかぶってとっても可愛い花が咲く。バックが青空だったら最高なんだけどナーーー
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せっかく雪国に暮らしているんだから雪も楽しまなきゃね。
by yoko1939 | 2013-01-26 11:57 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

明治橋上流に久しぶりに白鳥さん

歩くといろんな出会いがあって楽しい・・・1日5000歩を目標にしているのだが達成できる日がなかなか無い。
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今日の出会いは白鳥。お久しぶり・・・・明治橋上流に数年前まで白鳥の飛来地だった。明治橋の橋げたの工事のせいか、餌付けをする人がいなくなったせいか来なくなってしまった。

この白鳥さんたちも旅の途中に羽を休めているのかナーそれとも飛来地から遊びに来ているのかなー
by yoko1939 | 2013-01-20 22:04 | 盛岡を楽しむ | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


by yoko1939
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