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れきしてくてく㊱波乱万丈だった那珂梧楼の碑は大泉寺に

前号で触れた作人館の教授として活躍した江帾梧楼(維新後、那珂に改め)の人生は波乱万丈だった。
 医師だった父・通俊は文政年中に出羽国大館(秋田県大館市)から、盛岡藩に仕えた。兄春庵も藩医となったが、梧楼は、幼いころから学問を好み、十九歳の時に「声名を以って海内を驚かさざれば、一生入らず鬼柳関」の詩を遺し脱藩し、江戸に向かった。 
 安積良斎や、東條一堂に学び、後に京都の森田節斎に、その後坂井虎山に学び塾長になった。
 一八四九(嘉永二)年,梧楼の兄春庵(しゅんあん)が、藩主継嗣事件で藩主 利済(としただ)の側近田鎖左膳に捉えられ入獄,獄死する。その処分は酷で、遺骸は塩漬けにされ、天福院の仮埋葬場に板塀をめぐらされ永籠とされた。
 それを聞いた梧楼は、仇討を画策し潜伏した。 
 親交の深かった長州の吉田松陰、肥後の宮部鼎蔵が東北遊学に出かけることを知り、1851(嘉永4)年12月一緒に出かけた(二人は盛岡の春庵の仮埋葬場と遺族を訪ねている)。二人に白川で別れた梧楼は機会をうかがったが,先に利済派が失脚,本懐を遂げることができなかった。
 1855(安政2)年 利済の死去で藩政改革を進めていた盛岡藩は、全国的視野を持つ一流の優れた学者を求め、梧楼を、1859(安政六)年に作人館の教授に迎えた。梧楼は、学制を一新し、すぐれた人材を育成した。

 1868(明治元)年,秋田戦争における盛岡藩の指導者として、楢山佐渡らとともに捕らえられ,江戸へ護送された。
 1872年(明治4)に恩赦をうけ、大蔵省、文部省に仕えた。

 
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梧楼没後門弟が建立した招魂碑が、大泉寺(本町一丁目)本堂に向かって左側にある。(浦川陽子)
by yoko1939 | 2018-09-22 16:55 | 歴史てくてく | Comments(0)

盛岡のまちと暮らし、岩手の自然を楽しむレポート


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