前号で菅森幸一さんの体験を中心に1945年3月10日の盛岡空襲をお伝えしたが、2回目の盛岡空襲はまたもや盛岡駅周辺に8月10日の敗戦直前だった。
わがもの顔で上空を飛び交う米軍の飛行機に国鉄機関区が集中的に爆撃され10時10分に第1弾が落下し技工2人が重傷。その直後の2波の攻撃は一層激しく3人が犠牲になった。この日破壊された機関車は16両に及んだ。すざましい爆撃を受け、機関区に駐在する工兵が三人が土手に立って軽機関銃で撃つがあたるわけがなかった。
この日は、駅前の盛岡ガスにも及び、ガスタンクを狙って低空飛行で機関銃を連射。命中したタンクからガスが漏れ、消防団が「火を使うな」と叫んで歩いた。盛岡ガスの現場員が犠牲になった。
菅森幸一さんの「盛岡の子どもたち」より8月10日の盛岡空襲 タンクをめがけたロケット弾の一発が北上川の向こう岸に落下爆発し、大沢川原に土砂や泥水が降り注いだ。
この爆弾で大人の頭ほどの石が菅森さんの隣の家の屋根を突き破り縁の下に突き刺さった。菅森さんの家にも7発以上の機関銃が撃ち込まれどこにいても狙われているようで生きた心地がしなかったという。
前号出の駅前の照井安蔵さんは、「戦地ばかりでなく、この盛岡でこの場所で経験した。生き地獄でござんした。二度とこの世でこんなことやるべきでないと思いあんした」(もりおか物語10巻)と語っている。体験者の言葉は重い。 (浦川陽子)